私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

美しいもの

迷ってしまう、というよりもどの道も袋小路に繋がっているような、そんな感覚が消えなくなったのはいつからなのでしょうか。

 

特に不快感や絶望感があるわけではないのですが。

 

人には全ての可能性が与えらえているという話があります。

 

大雑把に言ってしまえば制限しているのは自分自身なんだよ、という話です。

 

ですから、もっと自由に活発に行動できるようにしていきましょう云々と話が続くのです。

 

この話を否定したいわけではありません。

 

自分を制限している自覚が、私にはあるからです。

 

こうした流れの話では、おそらく意図的に社会性が捨象されているのではないかと感じています。

 

shouldやmustという概念こそが、自分に制限を掛けている発想の元凶だからです。

しかし、どれほど多くの選択肢を与えられていたとしても、電車に乗るのなら列に並ばなければなりません。

 

どれほど自由だと思っている人であっても、商品を盗む事は許されていないのです。

 

特定の誰かを利するためではないけれど、全体や社会という概念は個人の自制心によって価値あるものであり続けます。

 

もちろん、時としてその自制心を捨てる覚悟を持たなければなりませんが、それは自分勝手に振る舞って良いという意味にはなりません。

 

個人としてだけ人を見るのであれば、自由という概念はとても健やかなものに映ります。

 

しかし、全体の中の一部、連環の一つとして人を見るのであれば、自由の概念は大変危険なものでもあるのです。

 

隣の人が次にどう動くのか全く予想が出来ない状況下では、人の心が緊張や不安を滲ませます。

 

不安や緊張が集まった結果、無理やりにでも理解できるようにするために、より窮屈で統制ばかりの社会を望むようになるのです。

 

自由を求め自由に行動した結果、社会全体から抑圧される結果を生むというのは皮肉なものだと思います。

 

自由で平等な社会が行き着く先は共産主義であり、国家社会主義なのです。

 

自由は素晴らしいという話の前提はあくまでも個人としての自己を見た場合であり、その自由な自己を持っている他人を受け入れる度量が、私にも他人にもないのでしょう。

 

人に選択可能なものなど本当にあるのかどうか、以前から大変疑わしいと思っています。

 

なるべくしてなっている面が併存しているからです。

 

今、この文章は私が作っていますが、私が作らされているとも言えます。

 

思い付いた事を気ままに書いて支離滅裂な文章にならないように気を付けながら、私は文章を作らされているのです。

 

また選択可能だと思っているものの全てと言っても良いほどに、制限を受けた結果消去法的に選択が出来る状態のものばかりです。

 

私は先ほどまで薬膳の勉強をしていましたが、整体や哲学、神話の勉強をする事も可能でした。

 

しかし、薬膳を選んだのは試験があるからで、完全な自由意志による選択ではありません。

 

自由だと思い込む事は出来ても、それは真実ではないのです。

 

それが私には悲しいし、はっきりとした答えが出ない事だけがいつも分かります。

 

それでも人前で何かを発言するのなら、無理やりにでも意見を構築しなければなりません。

 

落としどころのない話は世間話であって、人前でするものではないのです。

 

自由を賛美するためには社会性を重視しない事が前提で、規律を尊ぶためには個人にそれほど焦点を当ててはいけない、と暗黙の了解がなされているのかもしれません。

 

それはあくまでもポジショントークなのではないか、とも思います。

 

どんな恨み言でも綺麗事でも、本物ならばそれで良いのです。

 

私には真実や本物を判別する力がないので、本物っぽい、らしさがあれば、それだけで良いのです。

 

ポジショントークの全てを否定したいなどとは思いません。

 

私だってやっている事がいくらでもあります。

 

そのたびに心が重くなってしまって、どんどんと言葉数が少なくなっていくのです。

 

話せば話すほど、情報量が多くなればなるほどに、空洞化が進んでいるような雰囲気があります。

 

我が郷土が生んだ希代の作詞家、八木重吉は及ばずともこの世に美しいものがあると分かりさえすれば……と書き残しました。

 

その気持ちが痛いほど分かります。

 

最後にその詩を引用して、記事を終わりにしたいと思います。

 

わたしみずからのなかでもいい
わたしの外の せかいでもいい
どこにか「ほんとうに 美しいもの」は ないのか
それが敵であっても かまわない
及びがたくても よい
ただ 在るといふことが 分かりさえすれば、
ああ、ひさしくも これを追ふにつかれたこころ