アメリカの大統領がトランプになって、あんな差別主義者が大統領だなんてアメリカの民度が知れた、なんて話を耳にするようになった。
差別主義者だからという理由で差別している辺り、差別反対を訴える人たちはツッコミ待ちなのだと思う。
この世から差別が消える事はない。
そんな美しい世の中は空想上にしか生まれないのだ。
差別を肯定しているわけではない。
晴れた日の空が青いのと同じで、そういうものだと思っているだけだ。
そもそも人は平等ではないし、平等ではない場所で扱いを平等にしようとすれば、それが必ず差を生み出す。
差が与えられる人と与えられない人は区別される。
与えられる人は与えられない人たちから妬みや嫉みを買うだろう。
与えられる人たちは自分の努力を根拠にしたり、世の中は平等に出来ていない事を主張して正当化する。
一生終わらない理解不能な溝が、これまでもこれからも続いていくしかないのだ。
差別をなくそうと言っている人の気持ちが分からないでもないけれど、人間やめますか? みたいな話になってしまう。
生まれた環境だって一つの差だ。
これまでしてきた経験も同じく差になる。
人生の中には選択不能な不幸や幸福があって、それによって上昇する人もいれば墜落する人もいる。
虐待という問題に関わって来てから、久しく時間が経った。
その中で虐待児を助けようとしている人と会う機会も、それなりにあったのだけれど、そういう人たちの多くは差別をなくそう、平等な社会を実現しようなどと謳っていた。
その実、虐待児に限らず弱い立場の人を守っている自分に、とことん酔っていただけだという事もよく分かった。
もちろん、そうではない人も少ないけれどいる。
しかし、たとえば虐待防止の活動に関わる事によって、就活に有利になるだとか、虐待防止を謳う団体の周知に奔走して、最も重要な虐待や虐待児に関心がないとか、そういう事が世の中に蔓延している。
結局は弱い立場の人を守るという体裁で、自分の価値を高めたいという事なのだ。
だから、差別はなくならない。
差別を肯定する人たちのせいだけではないのだ。
差別を否定している人たちですら、搾取出来る対象を見付ければ骨までしゃぶろうとしている。
差別が良いとは思わないけれど、差別をなくせと叫んでいるにもかかわらず無意識的に差別をしている人たちの群れを見ると、地獄というのはこの世の別名なのだと改めて痛感してしまう。
自分の力で生き抜くしかないと思うと、どうしても誰かを踏み台にしなければならない。
人より上に行くのなら、したくなくても必ずそうなってしまうのだ。
生きるという事は傷付ける事であり、傷付けられる事なのだと信頼出来る人が言っていた。
その連環から逃れる術を人は持たない。
その虚無感、焦燥感、絶望感を受け入れる事でしか生は持続しないのだ。
本居宣長が静かに訴えたもののあはれは、おそらくこういうものなのだと思う。
虚無や焦燥、絶望が深ければ深いほど自己が融解していく。
完全に融解した時に残る何か、心とも自己とも呼べない「存在」によって認識されるものこそ、もののあはれ。
人生に救いを求めても、それは悲しみに変わるだけだ。
それでも生きている間は生きる道を歩く事になる。
今日も人生は暗いし、虚しいけれど落ち込んでいるわけではない。
そういうものだと思っているだけだ。