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私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

呼吸

自己が世界と繋がるには、自己の心身を通じるしかなく、それ以外に世界を知覚する方法がない。

 

つまり、私が死ねば私の世界は消失する。

 

私が死んでも誰かが道を歩き、木の葉が風に吹かれ、日月が交互に地上を見下ろす事はないのだ。

 

それは私の世界の中では決して起きない。

 

私の死と同時に全ては灰塵に帰し、全てが砂で出来ていたかのようにサラサラと形を消していくのだ。

 

あくまでも私の世界は、私がいるという大前提があり、存在しているだけなのだから。

 

私が死んでも世界が存続する、というのは机上の空論でしかない。

 

知覚できないものがどうして存在していると言えるのか。

 

一体、私は誰に世界を預けてしまったのだろう?

 

世界は主観なのだとショーペンハウアーが叫び、その虚無感、絶望感をキルケゴールニーチェが受け継いだ。

 

それも一面の真理ではあるにせよ、私が死んだら全ての物質に変化が訪れるのかと言えば、やはりそうではない。

 

生物の死は個別的な事柄であり、全体的な事柄ではないのだ。

 

そこでヘーゲル弁証法のように、全体を包括しさらにそこから一段上のものにしていこう、というような思想も生まれて来る。

 

AとBの悪いところを取り除いて良いところを組み合わせ、AでもBでもないさらに格上のCを創造し、CとDがまた同じようにEを生み出し、という連鎖が生まれる。

 

大雑把に結論だけを言えば、ヘーゲルショーペンハウアーは全く正反対の思想を唱え、ヘーゲルは明るく陽気な、ショーペンハウアーは暗く陰鬱とした主張だった。

 

ショーペンハウアーヘーゲルは同時代の人物で、激しく対立し当時の趨勢はヘーゲルに味方していたそうだ。

 

しかし、2人の主著を概観してみると、どちらもその通りだとしか言えないのだ。

 

なぜそこから正反対の思想が生まれるのかと言えば、やはり成育歴や経験の違いが出て来てしまう。

 

ショーペンハウアーは幼い頃、インドを訪れた際に地獄絵図のようになっている世界の中で、救いを求める事はできないと直感的に理解した。

 

世界は盲目的な「意志」の力、つまり●●のために●●する、という形式ではなく、ただ欲する力によって動かされていると主張した。

 

何のためにという目的が失われ、ただ欲するためだけの無目的な力が世界を支配する永遠不変の真理という話。

 

哲学者の紹介をしたいわけではないので、ここで強調したいのは真理の追究を目的とする哲学においてさえも、個人的な部分が見逃せないという点だ。

 

経験、生まれ持った性質、育った家庭環境や出会った人、育った時代の経済、社会、政治情勢なども含まれる。

 

結局のところ、私たちは選べないもの――たとえば育った家庭環境や生まれ持った性質のように――によって、何を考え感じるのかを決められているのだ。

 

世の中では自由の美徳が喧伝されているけれど、自由なるものはこの世に存在などしない。

 

合理的に選んでいるのなら合理に付き従っているだけだし、何も考えていないのならそこに自由な意思が介在する余地などない。

 

私たちは何のために生まれ、何のために死んでいくのか、という事についてさえも分からないままに生き死んでいく道を歩む。

 

幼い頃から不可避の不幸に見舞われた人物は、致命的な欠損を抱きその不足感に苛まれながらしか、生きる事ができなくなってしまう。

 

その欠損が大きければ大きいほど、イデアを求めるようになる。

 

イデアは理想と言い換えても良いのだから、つまり存在しないはずの美しいものを空想する事でしか、一時的な救いさえ感じられなくなってしまうのだ。

 

端的にそれを感じられるのは、たとえば空腹時に想像する食事と、実際に食べるものとでは前者の方が魅力的という事実に表現されている。

 

思い出もそうだろうし、人物評価などもそうだろう。

 

これ以上の不足感、焦燥感、絶望感と直面したくないという思いは、私の意識を現実世界から飛ばす浮力となって、空想癖をさらに酷いものへと変えてしまう。

 

その空想は文章にする事によってのみ自己の対外へと昇華される性質であり、だからこそ仕事がない今日のような日には、こうしてブログを更新しなければならない。

 

最も良いのは小説にする事であり、それが最も強力な発散力を持っている。

 

それなのに今は何も小説が書けない状態が続いているのだから、苦痛の中に人生があると言っても良い。

 

そのくせに大して焦ってもいなければ、不安にもなっていない。

 

以前であればこの焦燥感が不眠や苛立ち、不安や落胆をもたらしていたのだが、今はどういうわけなのか全くどこにも溜まっていかない。

 

逃げているのだろうか。

 

たとえば、やるべき勉強に時間を費やす事によって、自分をごまかしているのかもしれない。

 

世間的には空想に時間を費やすよりも、勉強をしていた方が有効だと思われている。

 

しかし、私の人生はそれでは生きていけないのだ、呼吸ができなくなってしまうから。

 

私はいつになったらこの不足感を、致命的な欠損を補う事ができるのだろう。

 

もっと最低な人物になりたい、と思う事もある。

 

今でも相当なものだと思うけれど、今の私の生活には救いが多過ぎる。

 

幸福な状況になると逃げたしたくなる癖は、この先も治らないのかもしれない。