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私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

体から出る声

さて、ようやくブログを更新する暇を手に入れて、ウキウキしながらキーボードを叩いております。

 

仕事も納品が終わり、自分の好きなように文章を作れるというのは、なんてすばらしい事なのでしょうか。

 

今日、ブログを更新している喜びが一入なのは、理由があるのです。

 

実はこれから書く文章は七月の末から感じていた事であり、しっかりと考えが整理出来るまで書かないでおこうと思っていました。

 

それがようやくまとまったように感じたからこそ、今日の更新に至るわけでございます。

 

いやー、ルンルンでござる、もうここで記事を終わりにしても良いくらいの達成感がありますが、ご覧になっている方々の不完全燃焼を解消すべく、これから筆を進めて参りたい所存。

 

私は言葉に関しては非常に強いこだわりを持っています。

 

色々な形態、形式の言葉があるなぁ、と思って毎日何気なく生きてるだけで楽しめるのですが、最近個人的大発見がありました。

 

通常、言葉は頭の中で考えられたもの、という印象があります。

 

理論的であり、より分かりやすくするための道具という雰囲気です。

 

これを仮に頭から出る言葉だとすると、たとえば感嘆詞が付くような「おお!」「すごい!」などの言葉は明らかに思考に先行して、言葉が出ていますので、これを体から出る言葉だと言えそうです。

 

これはすごく面白い事で、体から出る声はタイミングも対象も人それぞれに違うらしいのです。

 

音に反応を示す人もいれば、動きに刺激される人もいますし、間や空白に感動する人もいました。

 

面白いな~、と思っていたのですが、その後にいつも通り落胆する出来事が待っておりまして。

 

確かにその瞬間は十人十色の反応を示していたのに、影響力のある人がその後に何かを言うと、そのとーり! と追従してしまうらしいのです。

 

その時、自分の体から出た声よりも、こうした方が良いだろうと頭で考えた声に従っています。

 

そのように自分自身が何に感動し、どこに関心を持ったのかを忘れてしまうなんて、もったいない事ではないかと思うのです。

 

オチとしては寄らば大樹の陰、長いものに巻かれろ方式に絡めとられて、感性が殺されていく様を見ただけなのですが、その過程には体から出る声なるものがあると確信出来るタイミングがありました。

 

普段、人と同じ事ばっか言いやがって、強い奴にばっかへりくだりやがって、と隅で体育座りをしている私ですが、その過程ではしっかりと個々人の感性を示していたのですね。

 

それに気付かなかっただけだったのかと思うと、人生の楽しみ方を見失っていたような気がして、何となく反省したくなります。

 

何か圧力が掛かってしまうとすぐに変質してしまうほど、個々人の感性というのは儚いものなのかもしれません。

 

これは私の推測ですが、相手の事を知ろうと思うのならリラックスした状態、普段の状態や言葉、態度が重要になるのでしょう。

 

そこに誰かの手垢が付いていない、何かが見えるような気がします。

 

ところで、体から出る声の例を取ってみてもそうですが、自分の好きなものは何か、なんて考える暇というか必要などないのでしょう。

 

これによく似た経験をした事があります。

 

たとえば、伝統芸能で狐やら獅子舞やらをやる時に、舞台に立てば体はどう動けば良いのかを知っているのです。

 

それなら練習は必要ないじゃないか、という声が聞こえてきそうですが、全くそうではありません。

 

体は元からどう動くべきなのかを知っているにもかかわらず、普段から心と体が綺麗に連結している人はほとんどいません。

 

むしろ、心若しくは体を抑制する事が多いのです。

 

つまり、どう動けば良いのか知っているけれど、その通りに動かないように生活の間で訓練されていると言ます。

 

それによって多くの利益が生まれますが、それと同時に連結や一貫性が損なわれ、酷い場合には人生から現実味が失われる事もあるのでしょう。

 

ですから、練習を通じてしっかりと心身の連結を取り戻し、体が動きたいように動ける状態を作り上げる必要があるのです。

 

そのために体を鍛え、そのために体の声を聞かなければなりません。

 

普段の生活の中では知識は武器になりますし、自己を抑制する力が社会性や経済基盤、信用などを培う力へと変わります。

 

それと同時に自己の同一性や一貫性を損なわせてしまう、危険な要素にもなり得るのです。

 

どちらも重要ですから、また例の如く結論は調和させる事が大切というところに落ち着きます。