私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

表象としての世界

ショーペンハウアーは世界は表象であると言い、主観しか存在しないと断言した。

 

つまり、人の数だけ世界がある、そういう意味だ。

 

人は自己の心身を通じてしか、世界と繋がる事ができない。

 

そこには必ず自己というフィルターが掛かる。

 

ただあるものなのに、それが良くなったり、悪くなったりするのは、人の数だけ世界があるからだ。

 

ただあるだけのものが、自己の心身を通過する事によって色分けされる、善悪に分けられる。

 

その事が恐ろしいと思うし、切ないとも虚しいとも思う。

 

きっと世界は透明に近いもので、元々が色分けの出来ないものなのではないだろうか。

 

そこにフィルターが掛けられる事によって、透明なものに色が付いているように見えるのだ。

 

きっと、人が世界が透明であるという事実をごまかしたその時から、世界は歪み始めたのだろう。

 

世界というのはつまり主観なのだから、主観が歪み始めたのだと思う。

 

私の人生もそうだろうし、おそらく他の人の人生も経験や感覚を通じて歪んできたのだろう。

 

ただ純粋にものを、人を、世界を見る事がどうしてもできないのは、弱いからではなくて、人というのはそういう虚しい存在なのだ。

 

価値観を捨てる事など到底出来ない、傲慢で矮小で愚鈍な存在なのだろう。

 

その中の一人として、間違いなく私がいる。

 

その中の一人として、おそらくあなたもいる。

 

私はただ生きるという、とても単純で質朴な事柄に対して、ありとあらゆる価値観をなすりつけ、清らかな水に汚泥を混ぜるような真似をしているのだ。

 

そうすることでしか、私は今までもこれからも生きていけないのだろう。

 

虚しいという言葉しか出て来ないこの感覚を、どんな言葉にすれば良いだろう?

 

私は質素に生きたいし、贅沢を求めるつもりはない。

 

物質的なものに対する執着は最低限だけで、ほとんど持っていない。

 

その反面で精神的にはほぼ潔癖に近いのだ。

 

ありとあらゆる歪みが許せない。

 

ありとあらゆる怯懦を、放縦を、人間性の零落を許せないのだ。

 

私が縋るものはただ自分の生き様だけで、どの場面を切り取られても必死に生きた自負がある。

 

決して戻りたくない過去しかないけれど、それでも必死に生きた事だけは胸を張れる。

 

そこにしか私を支えるものはない。

 

そこが私の弱さなのだろう。

 

世界は主観で人と人は永遠に理解など出来ない。

 

そう思う事でしか救われない人たちが、私を含めて多少いる。

 

分かり合えないのだから、自分に理解が出来ないこの世界は普通なのだと、そう思う事でしか救われない人たちが。

 

虚しいとしか言えないこの感覚を、どんな言葉にすれば良いだろう?