ショーペンハウアーは世界は表象であると言い、主観しか存在しないと断言した。
つまり、人の数だけ世界がある、そういう意味だ。
人は自己の心身を通じてしか、世界と繋がる事ができない。
そこには必ず自己というフィルターが掛かる。
ただあるものなのに、それが良くなったり、悪くなったりするのは、人の数だけ世界があるからだ。
ただあるだけのものが、自己の心身を通過する事によって色分けされる、善悪に分けられる。
その事が恐ろしいと思うし、切ないとも虚しいとも思う。
きっと世界は透明に近いもので、元々が色分けの出来ないものなのではないだろうか。
そこにフィルターが掛けられる事によって、透明なものに色が付いているように見えるのだ。
きっと、人が世界が透明であるという事実をごまかしたその時から、世界は歪み始めたのだろう。
世界というのはつまり主観なのだから、主観が歪み始めたのだと思う。
私の人生もそうだろうし、おそらく他の人の人生も経験や感覚を通じて歪んできたのだろう。
ただ純粋にものを、人を、世界を見る事がどうしてもできないのは、弱いからではなくて、人というのはそういう虚しい存在なのだ。
価値観を捨てる事など到底出来ない、傲慢で矮小で愚鈍な存在なのだろう。
その中の一人として、間違いなく私がいる。
その中の一人として、おそらくあなたもいる。
私はただ生きるという、とても単純で質朴な事柄に対して、ありとあらゆる価値観をなすりつけ、清らかな水に汚泥を混ぜるような真似をしているのだ。
そうすることでしか、私は今までもこれからも生きていけないのだろう。
虚しいという言葉しか出て来ないこの感覚を、どんな言葉にすれば良いだろう?
私は質素に生きたいし、贅沢を求めるつもりはない。
物質的なものに対する執着は最低限だけで、ほとんど持っていない。
その反面で精神的にはほぼ潔癖に近いのだ。
ありとあらゆる歪みが許せない。
ありとあらゆる怯懦を、放縦を、人間性の零落を許せないのだ。
私が縋るものはただ自分の生き様だけで、どの場面を切り取られても必死に生きた自負がある。
決して戻りたくない過去しかないけれど、それでも必死に生きた事だけは胸を張れる。
そこにしか私を支えるものはない。
そこが私の弱さなのだろう。
世界は主観で人と人は永遠に理解など出来ない。
そう思う事でしか救われない人たちが、私を含めて多少いる。
分かり合えないのだから、自分に理解が出来ないこの世界は普通なのだと、そう思う事でしか救われない人たちが。
虚しいとしか言えないこの感覚を、どんな言葉にすれば良いだろう?