誰が好きで家族を、肉親を恨むだろうか。
誰が好んで家族を悪く言うというのか。
どれほど愛されたいと願っても、それが虚しい願いであり、永遠に手が届かないものだと分かった時の絶望を、一体誰が、同じ世界を見た人間以外の誰が理解してくれると言うのか。
同じ世界を見た人たちはいわゆる「普通」ではない。
「普通」の世界から好きで飛び出したのではなく、振り回されるようにして弾き飛ばされたのだ。
その嘆きを口にすれば「普通」ではないレッテルを貼られ、重たい人間だと毛嫌いされ、ただでさえ必要とされていないにもかかわらず、その上から欠陥品だと烙印が押されるようなものではないか。
私は吹き飛ばされた場所から「普通」の世界が見える位置までしか歩み寄る事ができない。
私は好きで「普通」ではない人間になったのではなく、「普通」ではない人間のいる「普通」ではない環境の中で「普通」ではない経験を通じて、喉から手が出るほど欲しかった「普通」を手放さざるを得なかった。
私の立っている位置から「普通」の世界を見ると、歪が歪だと理解されていない事がよく分かる。
誰もが違う価値観を持っていると言いながら、異なるものに対する執拗な攻撃が止まないのは何故なのか。
誰もが幸福を求めていると言いながら、その中身が金しかないのは何故なのか。
私にはおぼろげにだけれど、分かっているつもりでいる事がある。
「普通」の外に広がる世界など、あってはいけないのだと誰もが無自覚の内に思っているのだ。
「普通」の中身は色々なものが入る。
たとえば、法律もそうだ。
法律の脆さを痛感するのは、法律に守られない状況があると知った時しかない。
警察は必ず事後的に動く。
目の前に刃物を持っている男がいて、その男が今まさに私の首を切ろうと振りかぶった時、法律は何の役にも立たない。
その時、私が取るべき行動は法律を守って、相手の心身を尊重して話し合いを始める事ではない。
逃げ果せる自信があるのなら別だが、その時に私は相手を殺す決意をしなければ、私の生命が奪われるのだ。
法律が私を守らない時、私が死んだ後にしか効力を発揮しないと分かったその時、私は法律の外にいる。
そこでは私が自分の頭で考えて、自分の体を使って切り抜けるしかない。
もしくは、蹂躙されるしかない。
どのような扱いにも耐え、私は精神を異形へと変えながら、一見すると人に見える「何か」になるしかない。
この時、法律が私をどのように守ってくれるのだろうか?
「普通」に考えれば、こんな事は大げさな話で全く日常的ではないと一蹴される。
一蹴されてしまうのだ。
「普通」の外に世界が広がる事を許さないのは、「普通」ではない世界で頼れるものが己しかないという不安や恐怖かもしれない。
そうやって「普通」の世界から吹き飛ばされた人たちは、世間的に消えていく。
いないはずの人物へと変わるのだ。
話を聞いてもらう、ただこれだけの事でさえ涙を流して喜ぶ人がいるのは何故なのか。
いないはずの人物は、いる事を認めてもらえただけでも涙を流す事がある。
世界はいないはずの人物の悲鳴や慟哭を無視する事によって成り立っている。
虐待を受けた人物はテレビや小説の中だけで存在が許され、目の前に現れる事は許されない。
「普通」の外にいる人など、いるはずがないのだから。
私にはいつまで経っても、世界が良いものだと思えない。
私にはいつまで経っても、自分が良いものだと思えない。
以前のように実際に死ぬ覚悟で何かをするつもりはないけれど、私はただ茫然と「普通」の世界を眺め、そんなものだと言うくらいしか、力が残っていないのだ。