私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

川の上に架かる線路の上に満月

昨日、友人との待ち合わせで使った駅は初めての場所だった。

 

友人が遅れると言い出し、私はどこで時間を潰そうかと迷い駅の周りを歩いていた。

 

グーグルマップで調べてみると近くに大きな川が流れているらしい。

 

私は無類の川好きであり、川辺に座っているだけで何時間でも潰せる。

 

そこで私は川を目指して歩いたのだけれど、駅から5分もしないで目的の場所へとたどり着いた。

 

川沿いを走っている中学生を横目に、私は淡々と川沿いを歩く。

 

私の隣を走っていく中学生たちは先生がどうのと文句のような事を言っていた。

 

彼らからしてみれば何気ないその会話が、私の郷愁を強く誘う。

 

かつて中学生だった頃の自分を思い出し、そんな他愛のない会話もしていたはずなのに記憶に残っているのは苦々しい事ばかり。

 

記憶というのは実際に遭った事を覚えている機能の事ではなく、心が刺激を受けた瞬間を冷凍しておく機能なのかもしれない。

 

恋愛や空手、伝統芸能や学校でのいじめ、家庭内不和など私の中学時代というのは忘れたい事ばかりだと思っていた。

 

しかし、私にも他愛のない会話をしていた穏やかな日が、退屈しか感じなかった幸福な時間があったのだ。

 

私は鬼束ちひろの曲を聴きながらあと一歩踏み出せば川へ落ちる場所へ座り込み、そんなことを考えていた。

 

すると、空が美しく色を変えつつある事に気付いたのだ。

 

満月はこれから来る夜を期待して燦然と輝いている。

 

自分の出番はこれからやって来るのだと言わんばかりの、少し押しつけがましい明かりだったように思う。

 

f:id:noriwo2003:20190220003808j:plain

 

分かり辛いけれど、上から二本目の枝の下にその満月が映っている。

 

実は水面にも映っているのだけれど、少し見辛い。

 

振り返ると川の上に架かっている線路を電車が通過していった。

 

仄かに赤味の差した夕焼けの下を、押し付けがましく光る満月の下を電車が通る様は映画のワンシーンのようだった。

 

f:id:noriwo2003:20190220004027j:plain

 

私は1時間ほどこの場所に腰を下ろし、昔を思い出して妙に切なくなっていた。

 

しかし、このまま座っていると神経痛が出そうだと思い、少し歩いた場所にある階段へと腰を下ろした。

 

空は刻々と光を失っていき、いよいよ私の気持ちは切なさを増していく。

 

中学時代の私が今の私を観たら、一体何というのだろうか?

 

認めてくれるのだろうか?

 

それとも失望するのだろうか?

 

30歳という年齢に達した自分を、15歳の私はどう見るのだろう?

 

捨ててきたものの数々を、諦めて来たものの1つ1つを、失ったもののそれぞれを伝えれば15歳の私はきっと納得をしてくれるだろう。

 

しかし、本当に15歳の私が目の前にいたならば、私は何も言うつもりはない。

 

どんな恨み言を言われても何も言わないだろう。

 

川は静かに流れ、電車を何本見送ったか分からなくなった私はこのガラスの破片が体内からジワジワ体の外へと向かって出ていくような痛みを覚えつつ、ただただ階段に腰を下ろしていた。

 

すると、一匹の猫が現れ私の膝に乗って来た。

 

f:id:noriwo2003:20190220004643j:plain

 

猫に私の気持ちが分かったとは言わないけれど、慰められているような気持ちになりやって来た猫の額を指で撫でた。

 

猫はしばらく私の膝から川を眺め、繁みへと帰っていった。

 

その頃には空は深い紺に染まり、私のスマホには友人から何件も連絡が届いていた。

 

川から離れる時、私は少しの間現世から離れていたのではないか? と思うほど気持ちが軽くなっていた。

寝ないで書いた日記

昨日からほとんど寝ておらず、不眠症によって日々悩んでいる私にとっては辛い一日になっている。

 

しかし、これは自業自得なので誰を恨むわけにもいかない。

 

というのも、昨夜は幼馴染と二人で友人一家がやっているスナックへ行き、そこで午前1時前まで騒いでいたのだ。

 

仕事の影響もあって私は一日の大半を一人で過ごしているし、大声を出す事もなければ騒ぐ事も一切ない。

 

だからこそ、時折カラオケへ行ったり大騒ぎをしてしまうと体が興奮状態になって寝付けなくなってしまうのだ。

 

そうなると分かっていてもやはり楽しい場所へ行くと騒いでしまうし、眠れなくなってもいいやという気持ちになる。

 

私は人付き合いが苦手であり、人見知りで人の好き嫌いはすこぶる激しい。

 

それなのに周りからはそう見えないらしく、人懐っこくて陽気な人物のように思われる事がある。

 

人に関心などほとんど持っていないし、世間にもニュースにも興味はなく、私の関心を引くのはただただ自分の感覚だけなのに、それとは正反対の人間だと思われるのは不思議な感覚だ。

 

以前、私はエムグラムという心理テストのようなものをやり、それが見事に的中すると言う人が多いし、私自身も当たっているように思えるので事あるごとに見返してしまう。

 

f:id:noriwo2003:20190217155649j:plain

 

普段からナイトモードにしているので画像が暗いのはご容赦願いたい。

 

神経をやられやすい人間は目が光に弱くなるらしい。

 

それに加え嫌がらせのように私の瞳は明るい茶色なので、普通の人以上に世界が明るく見えているというのだ。

 

昼間に外へ出なくない理由は目が疲れてしまうからでもある。

 

さて、これがその結果の一部なのだけれど、私としては当たっているように思える。

 

そして、当たっているのが何となく嬉しいので、よく人に見せている。

 

すると、大抵の人はスーパードライというところが絶妙にしっくり来ると言ってくれるのだ。

 

私はドライな人間だと思って生きてきたつもりはなく、むしろ執着心に関しては際立っていると自覚をしてきたのだが、周りからはそう見えていないらしい。

 

しかし、人と話している時には「どうして些末な事ばかり気にするのだろう?」と考えてしまう時がかなりあるのも事実なのだ。

 

私から見て面白いものに関しては尋常ではない執着心を持っているのだが、そうではないものは私の心の表面をかすりもしない。

 

さらに私が面白いと思えるものはそれほど多くないので、そうした意味ではスーパードライに対応しているものが相対的に多く、やはりエムグラムは当たっているように思える。

 

 

 

 

隙がないという言葉をよく言われていた時期があるのを思い出してしまった。

 

その時期は私が誰とも付き合っていない時期で、流れに任せて何人かとセックスをしていた時期だった。

 

相手からそう言われる事が多かった記憶があるのだ、隙がないと。

 

一般的に言われるように賢者タイム云々だから冷たくなるというタイプではないので、おそらく普段からの印象を言っていたのだろう。

 

何事に関しても私は真剣であったり、夢中になっている人が好きで、そうした相手がいると思わず見入ってしまう。

 

観察を始めてしまう事がある。

 

そのために相手を夢中にさせるために色々と覚えようとしていた時期もあった。

 

行為の最中には大抵冷静になっている事が多いのは、おそらくこうした気質に起因しているのだろう。

 

眠たいからなのか、それともいつも通りなのか理由は分からないけれど、今日も私は判然としない世界の中で自分が朧げな存在だと感じている。

 

理性的なのか感情的なのか、さっぱりしているのか女々しいのか、生きているだけなのか生きようとしているのか。

 

ふと思い出したけれど、この感覚は以前にもよく感じた事があるものだ。

 

精神的な不調が顕著になると、そのような状態の人はなぜか景色と姿の境界線が朧に見えるのだ。

 

姿と景色の境界が滲み、少し溶けているように見えてしまう事がある。

 

私はいつからその状態なのだろう?

 

不調なわけでもないのに、病院へ通っている人と同程度の脆さを放っている。

 

全て睡眠不足のせいにして、私はベッドに戻ろうと思う。

人の振り見て

明日からまた仕事が始まるので休みの間にブログを更新しておきたいと思っていたけれど、休み最終日までダラダラしてしまうあたりがだらしないと思う。

 

しかし、最近は気温や気圧の乱高下でゾンビ状態になっていたので、そう考えるとブログを更新しなかったのは怠けていたわけではないと言えるかもしれない。

 

こんな風に自分への言い訳をしなければいけなくなったのは、一体いつからなのだろうか?

 

ブログを更新しなかったのは低気圧のせい、時間をうまく作れないのは忙しいせい、やりたいと口だけ開いて行動を移せないのは疲れているせい。

 

そんな言い訳を誰にしているのだろうか?

 

私の人生なのだから趣味や好きな事などは自分の好きな時に、好きなようにすれば良い。

 

出来ない事情があるのなら別にやってもやらなくても良いのだ。

 

それなのに些細な事柄に関してまで言い訳を探そうとしている。

 

充実した人生でなければいけないのだろうか?

 

人から見て幸福でなければならないのだろうか?

 

私は一体誰の人生を生きているのだろうか?

 

そう思うと中原中也の詩が頭に浮かんだ。

 

頑なの心は、不幸でいらいらして、
  せめてめまぐるしいものや
  数々のものに心を紛らす。
  そして益々不幸だ。

幸福は、休んでゐる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでゐる。

 

忙しくしていなければ落ち着かないというのは、私が不幸であるからだと言えるかもしれない。

 

幸福は休んでいるのだ。

 

明らかになすべきものを少しだけ持ち、それ以外をそれ以外だと考えられる人こそが幸福なのだろう。

 

趣味のくせにまるでやるべき事かのように考え、自分を追い詰めるための道具に変えている今の私はまさに愚鈍だと思う。

 

それでも私はやるべき事がなくなってしまうのが怖いと感じるのだ。

 

やるべき事がなくなった状態というのは用済みの烙印を押されたように感じてしまう。

 

数々のものに心を紛らし、目まぐるしいものに飛び付いては彼是と思考した気になる

 

 

 

 

そう言えば最近ニュースを賑わせている虐待の事件がある。

 

小学四年生の女児が父親から鬼畜の所業を受け、児相や母親からも見捨てられ無残に命を落としてしまった。

 

母親が悪い、いや児相がなっていないと世間が賑わっているけれど、1ヶ月後にこの事件を覚えている人が一体どれくらいいるのだろう?

 

人はそのようにして感情のはけ口を探しているのだろう。

 

少しタイミングがずれ、少し環境や状況が整えば自分が虐待をしたり、人を殺す十分な可能性を持っている人間だと気付かないまま、テレビに映る犯罪者が自己と隔絶された存在だと思い指弾する。

 

いつ自分が犯罪者として画面に映るか分からないという危険性を傍目にすらせず。

 

もし、亡くなった女児から私たちが学ぶ事があるとするのなら。

 

それは児相や母親を非難する要素を見付けようと目を皿のようにするのではなく、自分が同じような事をしないために何が出来るのかを探す事なのだ。

 

あの女児が私たちと同じ世界に生きていた人物だと思うのならば、ただ美辞麗句を並べ立てる私たちの偽善をより逞しくする存在ではなく、学びを与えてくれる存在だと信じるのならば、意識を外ではなく自己の内奥へと向けなければならない。

 

虐待の事件に限らず、何かしらの事件について世間が一様に同じ態度を見せている時、私の心は摩耗していく。

 

そのような感情的な態度が、自己に対して無批判な割には他者に対して必要以上に厳密な姿勢が弱いところにいる人やモノを潰しているのだと思う。

 

さて、ブログも更新したところで明日からの仕事を頑張ろう。

 

月末に待っている講演の準備も少しずつ整っている。

自宅傍の公園で

先週から毎日のように違う人に会い違う話をしていたのだけれど、私にこんなに多くの友人がいただろうか? と自分を笑いたい気持ちになった。

 

それと同時にこんなに毎日誰かに会っていると、私が私ではなくなるような感覚に陥り、昨日と今日会う予定だった人とは会わない事にした。

 

人には系統があるらしく、人と会って気力を養うタイプと気力を失うタイプがいるのだそうだ。

 

私は明らかに後者なのだ。

 

人と会う事で気力を養う人と失う人がいるという話を耳にした時、精神を紙やすりで撫でられたような不快感があった。

 

人と一緒にいるのが好きだという人は、誰かからの気力を奪う事で英気を養っているのだと思う。

 

人と出会う事の素晴らしさ、人と関わる事の充実感、人と繋がる事で生まれる可能性。

 

そんな話を耳にするたびに嘆息が漏れる。

 

そういった事柄を強調すればするほどに利用される人間、搾取される集団を求めているように見えてしまうのだ。

 

もちろん、これは私の持っている被害妄想なのだけれど、世の中は私が想像している以上の汚濁の中にある。

 

自分を善人だと思い込む詐欺師が跋扈している世間。

 

疑って掛からなければ守れない自分。

 

本当は、きっと人生はもっとシンプルで、もっと生きやすいもののはずなのだ。

 

しかし、私はその道を逸れてしまった。

 

社会の波や流れに乗る事はもちろんできず、しかし社会の外で生きる術も道もない。

 

嘆息を漏らしながら、ただ傍観しているしかないのだろうか?

 

それが嫌だから色々な事に手を出してはいるけれど、満足するというのには程遠い現実が目の前にある。

 

世間的にはそう見えないらしいけれど、私はきっと欲の塊でやりたい事や望みが人並み外れて多いのだろう。

 

手に入らないものの数に打ちひしがれ、これまで失ったものの重さに耐えかねている。

 

それならいっそ絶望感に潰されてしまえば良いものを、私はおそらく桁外れの生命力を持っていて潰されないのだ。

 

一つ不安なのは私は絶望感を糧にして生きているし、実現しようと奮闘している事が現実のものになったとしたら。

 

私は何かを徹底的に壊してしまうのではないか、という事だ。

 

それは人かもしれないし、社会のある部分かもしれない。

 

絶望感を糧に生きている人間が力を持ってはいけないのだと思うけれど、私は欲深いので力を手に入れるまで諦める事がない。

 

これまでもそうだったように、これからも私は力を求めて何かをするのだろう。

 

虚しい人生だ。

 

私は小さな丘の上でただ静かに夜景を見ているだけの一生でも構わないのに。

 

誰とも会わず、話さず、理解せずされず、ただただ静かに夜景を見ているだけで良いのに。

 

我が家から10分ほどの場所にある夜景スポットでそんなことを考えていた。

 

f:id:noriwo2003:20190122010117j:plain

 

不自由

来月から講演をする1年が始まる。

 

私のような若輩に何を伝えられるのだろうか? と考えていると何を話せば良いのか分からなくなってしまう。

 

話をもらったのは10月なのに来月に話す内容がまだ決まっていないのは不安で仕方ない。

 

ぼんやり本棚を眺めてみると哲学、心理学、社会学、歴史、神話、文化に関する本がずらりと並んでいる。

 

そのどれもに付箋が貼ってあり、重要な箇所はすぐに見返せるようになっているけれど。

 

結局のところ、これだけの本を読んでみたところで私は自分の言葉を紡ぐしかないのだ。

 

誰かの言葉を借りて、それらしい事を言おうと思えばすぐにでも出来る。

 

けれど、それでは意味がない、それは本を読めばわかる事であり私が私の言葉で話す必要がないのだ。

 

私が話す言葉はどこまでも私の匂いが沁み込んでいるものでなければならない。

 

借り物の美しい言葉ではなく、歪で直視すること能わないほどグロテスクであっても、私の主観によってしっかりと濾過されたものでなければいけないのだ。

 

そんな風に考えてみると、私の主観は私によって作られていない事実が面白くもある。

 

私は私の主観を通した言葉こそ借り物ではない、私自身の言葉だと思っているのに、その主観というのは経験や生まれ持った感性から生まれている。

 

私は経験を選べなかったし、どのような感性を持つかも選んでいない。

 

その不可避のものを通じて生まれた言葉が私の言葉であるのなら、私は話しているのではなく話を「させられている」。

 

どんな言葉を使うか選んでいるのではなく「選ばされている」。

 

自分が選ばされた言葉を見つけようと必死になっている今の私が滑稽ですらある。

 

それならばそれで明日一日で講演の内容を決めてしまおう。

 

話の流れを作っておいて、木曜日までに肉付けをしてしまえば終わりだ。

 

私は今まで何に悩んでいたのだろう。

 

こんな簡単に解決する悩みだとは思わなかった。

そんなものだよ

今日のように穏やかに過ぎていく毎日なら、きっと私は生まれて良かったと心の底から思えるのだろう。

今日は心地良い脱力感が全身を包んでいる。

正座をしているとそのまま私の足から根が生えて、しっかりと地中に広がっていきそうな感覚さえある。

 

今日は双子座流星群なのだそうだ。

学生時代、私は流星群のたびに外へ出て深夜遅くまで空を眺めていた。

仕事を始めてからもそういう事が多かったように思う。

 

10歳だった頃、私は空手の世界大会へ出場した。

その行きしな飛行機の中からヘールボップ彗星を見つけ、ずっと窓にへばりついていた。

すると、乗客の一人が私に何を見ているのかと尋ねた。

ヘールボップ彗星が見えるのだと言うと、乗客が窓の外を覗き込み感嘆の声を上げた。

次にこの彗星が地球から見えるのは2500年後なのだと伝えると、乗客はもう一度驚いた。

窓際で男児と成人男性が何かをしているようだと様子を見に来た乗客が、窓の外を見るたびに歓声を上げたので、私の周りにはちょっとした人だかりが出来た。

私は世界大会で優勝したのだけれど、その時の表彰よりも2500年に1度しか見られない彗星の存在を教えたあの時の方が誇らしかった。

 

星空を見ていると不思議な気持ちになる。

光っているあの星は今はもうないかもしれない。

光が届いているだけで、実際には存在しないものかもしれない。

もうないものなのに、夜空にある。

この世を皮肉っているような風景にすら見えるけれど、そのような意地の悪い雰囲気が夜空にはない。

清浄という言葉がしっくりと来る、ただ静かに光る星を見ていると私の体が夜の空気に溶けだしていくようにすら感じる。

 

どうしてなのだろう。

静かなものは私の心にすぐ入り込み、私をすぐに溶かしていく。

喧騒は私の心を硬直させるのに、静寂は私を溶かしていく。

蛍も夜景も雪も夜空も月も夕焼けも苔も何もかも、私が好んでいるものは私を私ではなくさせる雰囲気がある。

それがどことなく嬉しいと思う。

 

肺の奥まで沁み込んでいく冬の空気も好きなものの一つだ。

夜に穴が開いたように見える月も冬ならではのもの。

淡い夕焼けも冬しか見られない。

夏は夜空まで鬱蒼としていて見ているだけでやかましい。

夏は夕焼けも夜空も浮かれていて、変化が激しい。

それが好きな人もいるのだろうけれど、私は冬の空が一番好きだ。

静かで寂しく、冷たく澄み渡っている空気、雰囲気。

 

私の好きな季節がようやくやって来た。

年の瀬に差し掛かり、街では人が忙しく動いている。

居酒屋は普段にない活気を見せ、忘年会シーズンを演出している。

その忘年会が空騒ぎになっている様子を感じると、私は何となく嬉しくなる。

そんなものだよ、と言いたくなるのだ。

人生なんてそんなものだよ、と。

 

冬には嫌な記憶がたくさんあるけれど、良い思い出も冬に詰まっている。

少し前にブログに書いた美大生と会っていたのも冬だった。

あんなに執着心を掻き立ててくれる人は、もういないかもしれない。

彼女はまだ死にたいと言いたい気持ちで生きているらしい。

私はまだ生きたいと言いたくない気持ちで生きている。

 

人生の最も良い瞬間で私を燃やして灰にしてくれる人がいるのなら、私はこんな人生でも愛せると思う。

「この身の始末をどうしよう」

「この身の始末をどうしよう」

 

 

私は映画がとても好きで出来れば毎日でも観たいと思っている。

仕事は疲れるけれど長い時間働かないので、毎日でも映画を見る時間を作る事が出来るのが幸いだ。

冒頭のセリフは最後の忠臣蔵という邦画で出て来たもの。

 

桜庭ななみという女優の演技力を見せつけられた気がした。

このセリフを他の女優が言っていたら、私の心には残らなかったかもしれない。

言い回しが心の底から惜別を佇ませていたし、人生には抗いようのないものがあるのだと、そう言っているようにも思えた。

 

 

悲しいものや寂しいものが綺麗なのはなぜだろう?

人は誰でも生きる中で傷付くし、疲れる。

傷付いているだけでは、疲れているだけでは美しさは出てこない。

傷や疲労は生々しすぎるのだ。

そういうものが好きな人もいるのだろうけれど、私はそのタイプではないらしい。

 

 

作り笑いをしている中学生の頃の写真を見ている時のような、どうにもならないけれどただもの悲しい雰囲気が好きなのだ。

この写真を高校生の自分が見ても生々しい。

つい昨日の事だからだ。

しかし、ここまで時間が空いてしまうと、あの頃の自分と今の自分がほとんど繋がらない。

共通点らしきものなんてほとんどなくなっているのだから。

考え方も話し方も仕草も、何もかもが変わっている。

だから、そういう写真を見ても私の心は痛まない、ただささくれのように細やかな刺激があるだけ。

 

 

傷付いただけでは美しくない。

その痛みを受け入れようとし始めた時、ようやく寂しさが顔を出す。

この痛みと生きるしかない、受け入れるしか選択肢がないのだと思った時、痛みが諦めへと変わり始める。

諦めきってしまうのは違う、廃人まっしぐらの道に綺麗なものは何もない。

傷付きたくない、期待を諦めるしかない、それでも誰か傍にいて欲しい、それでも今は痛みが酷いから期待を持てるほど勇気が出ない云々。

そういう感情の相克の中でしか、私たちは生きる道を与えられていない。

その激しい感情の混淆が落ち着きを見出す場所が、切なさや悲しさ、寂しさなのだと思う。

「この身の始末をどうしよう」という言葉が、あの雰囲気が生まれるのはこの地点なのだ。

 

 

私はこれまで何を諦め、何を期待したのだろう?

諦めたもの、手放したものを数える行為そのものが何となく寂しい。

手に入れているものを数えるのではなく、私はいつまでも幻想の中に浸っていたいらしい。

私はやはり小説ではなくても良いから、文学の世界で生きていきたい。

世俗に染まろうと2年ほど思考回路を切り替えてみたものの、少しでも感動するものに出会ってしまうとその気持ちが首をもたげて来る。

最後の忠臣蔵もそうだし、先日放送されていたTHE Wもそうだし、関取花の曲もそうだ。

私の心を揺さぶるものが多い、多すぎる。

 

 

本当に私の手に届かない夢ならば諦めも付くけれど、こういうタイプの直感がある時にはどこかに居場所があるはずなのだ。

私のこれまでの人生の中ではこういうタイプの直感が外れた事がない。

文学の世界ではないかもしれないけれど、何か芸術の世界に私が見落としているものがあるはず。

早くそこを見つけて、呼吸をしたい。

私の精神は窒息しかけているような窮屈さに耐えきれずにいる。

 

この記事を書きながらずっと聞いていた曲を貼り付けておくので、寂しくなりたい人は聞いてください。

www.youtube.com