昨日、友人との待ち合わせで使った駅は初めての場所だった。
友人が遅れると言い出し、私はどこで時間を潰そうかと迷い駅の周りを歩いていた。
グーグルマップで調べてみると近くに大きな川が流れているらしい。
私は無類の川好きであり、川辺に座っているだけで何時間でも潰せる。
そこで私は川を目指して歩いたのだけれど、駅から5分もしないで目的の場所へとたどり着いた。
川沿いを走っている中学生を横目に、私は淡々と川沿いを歩く。
私の隣を走っていく中学生たちは先生がどうのと文句のような事を言っていた。
彼らからしてみれば何気ないその会話が、私の郷愁を強く誘う。
かつて中学生だった頃の自分を思い出し、そんな他愛のない会話もしていたはずなのに記憶に残っているのは苦々しい事ばかり。
記憶というのは実際に遭った事を覚えている機能の事ではなく、心が刺激を受けた瞬間を冷凍しておく機能なのかもしれない。
恋愛や空手、伝統芸能や学校でのいじめ、家庭内不和など私の中学時代というのは忘れたい事ばかりだと思っていた。
しかし、私にも他愛のない会話をしていた穏やかな日が、退屈しか感じなかった幸福な時間があったのだ。
私は鬼束ちひろの曲を聴きながらあと一歩踏み出せば川へ落ちる場所へ座り込み、そんなことを考えていた。
すると、空が美しく色を変えつつある事に気付いたのだ。
満月はこれから来る夜を期待して燦然と輝いている。
自分の出番はこれからやって来るのだと言わんばかりの、少し押しつけがましい明かりだったように思う。
分かり辛いけれど、上から二本目の枝の下にその満月が映っている。
実は水面にも映っているのだけれど、少し見辛い。
振り返ると川の上に架かっている線路を電車が通過していった。
仄かに赤味の差した夕焼けの下を、押し付けがましく光る満月の下を電車が通る様は映画のワンシーンのようだった。
私は1時間ほどこの場所に腰を下ろし、昔を思い出して妙に切なくなっていた。
しかし、このまま座っていると神経痛が出そうだと思い、少し歩いた場所にある階段へと腰を下ろした。
空は刻々と光を失っていき、いよいよ私の気持ちは切なさを増していく。
中学時代の私が今の私を観たら、一体何というのだろうか?
認めてくれるのだろうか?
それとも失望するのだろうか?
30歳という年齢に達した自分を、15歳の私はどう見るのだろう?
捨ててきたものの数々を、諦めて来たものの1つ1つを、失ったもののそれぞれを伝えれば15歳の私はきっと納得をしてくれるだろう。
しかし、本当に15歳の私が目の前にいたならば、私は何も言うつもりはない。
どんな恨み言を言われても何も言わないだろう。
川は静かに流れ、電車を何本見送ったか分からなくなった私はこのガラスの破片が体内からジワジワ体の外へと向かって出ていくような痛みを覚えつつ、ただただ階段に腰を下ろしていた。
すると、一匹の猫が現れ私の膝に乗って来た。
猫に私の気持ちが分かったとは言わないけれど、慰められているような気持ちになりやって来た猫の額を指で撫でた。
猫はしばらく私の膝から川を眺め、繁みへと帰っていった。
その頃には空は深い紺に染まり、私のスマホには友人から何件も連絡が届いていた。
川から離れる時、私は少しの間現世から離れていたのではないか? と思うほど気持ちが軽くなっていた。