私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

そんなものだよ

今日のように穏やかに過ぎていく毎日なら、きっと私は生まれて良かったと心の底から思えるのだろう。

今日は心地良い脱力感が全身を包んでいる。

正座をしているとそのまま私の足から根が生えて、しっかりと地中に広がっていきそうな感覚さえある。

 

今日は双子座流星群なのだそうだ。

学生時代、私は流星群のたびに外へ出て深夜遅くまで空を眺めていた。

仕事を始めてからもそういう事が多かったように思う。

 

10歳だった頃、私は空手の世界大会へ出場した。

その行きしな飛行機の中からヘールボップ彗星を見つけ、ずっと窓にへばりついていた。

すると、乗客の一人が私に何を見ているのかと尋ねた。

ヘールボップ彗星が見えるのだと言うと、乗客が窓の外を覗き込み感嘆の声を上げた。

次にこの彗星が地球から見えるのは2500年後なのだと伝えると、乗客はもう一度驚いた。

窓際で男児と成人男性が何かをしているようだと様子を見に来た乗客が、窓の外を見るたびに歓声を上げたので、私の周りにはちょっとした人だかりが出来た。

私は世界大会で優勝したのだけれど、その時の表彰よりも2500年に1度しか見られない彗星の存在を教えたあの時の方が誇らしかった。

 

星空を見ていると不思議な気持ちになる。

光っているあの星は今はもうないかもしれない。

光が届いているだけで、実際には存在しないものかもしれない。

もうないものなのに、夜空にある。

この世を皮肉っているような風景にすら見えるけれど、そのような意地の悪い雰囲気が夜空にはない。

清浄という言葉がしっくりと来る、ただ静かに光る星を見ていると私の体が夜の空気に溶けだしていくようにすら感じる。

 

どうしてなのだろう。

静かなものは私の心にすぐ入り込み、私をすぐに溶かしていく。

喧騒は私の心を硬直させるのに、静寂は私を溶かしていく。

蛍も夜景も雪も夜空も月も夕焼けも苔も何もかも、私が好んでいるものは私を私ではなくさせる雰囲気がある。

それがどことなく嬉しいと思う。

 

肺の奥まで沁み込んでいく冬の空気も好きなものの一つだ。

夜に穴が開いたように見える月も冬ならではのもの。

淡い夕焼けも冬しか見られない。

夏は夜空まで鬱蒼としていて見ているだけでやかましい。

夏は夕焼けも夜空も浮かれていて、変化が激しい。

それが好きな人もいるのだろうけれど、私は冬の空が一番好きだ。

静かで寂しく、冷たく澄み渡っている空気、雰囲気。

 

私の好きな季節がようやくやって来た。

年の瀬に差し掛かり、街では人が忙しく動いている。

居酒屋は普段にない活気を見せ、忘年会シーズンを演出している。

その忘年会が空騒ぎになっている様子を感じると、私は何となく嬉しくなる。

そんなものだよ、と言いたくなるのだ。

人生なんてそんなものだよ、と。

 

冬には嫌な記憶がたくさんあるけれど、良い思い出も冬に詰まっている。

少し前にブログに書いた美大生と会っていたのも冬だった。

あんなに執着心を掻き立ててくれる人は、もういないかもしれない。

彼女はまだ死にたいと言いたい気持ちで生きているらしい。

私はまだ生きたいと言いたくない気持ちで生きている。

 

人生の最も良い瞬間で私を燃やして灰にしてくれる人がいるのなら、私はこんな人生でも愛せると思う。

「この身の始末をどうしよう」

「この身の始末をどうしよう」

 

 

私は映画がとても好きで出来れば毎日でも観たいと思っている。

仕事は疲れるけれど長い時間働かないので、毎日でも映画を見る時間を作る事が出来るのが幸いだ。

冒頭のセリフは最後の忠臣蔵という邦画で出て来たもの。

 

桜庭ななみという女優の演技力を見せつけられた気がした。

このセリフを他の女優が言っていたら、私の心には残らなかったかもしれない。

言い回しが心の底から惜別を佇ませていたし、人生には抗いようのないものがあるのだと、そう言っているようにも思えた。

 

 

悲しいものや寂しいものが綺麗なのはなぜだろう?

人は誰でも生きる中で傷付くし、疲れる。

傷付いているだけでは、疲れているだけでは美しさは出てこない。

傷や疲労は生々しすぎるのだ。

そういうものが好きな人もいるのだろうけれど、私はそのタイプではないらしい。

 

 

作り笑いをしている中学生の頃の写真を見ている時のような、どうにもならないけれどただもの悲しい雰囲気が好きなのだ。

この写真を高校生の自分が見ても生々しい。

つい昨日の事だからだ。

しかし、ここまで時間が空いてしまうと、あの頃の自分と今の自分がほとんど繋がらない。

共通点らしきものなんてほとんどなくなっているのだから。

考え方も話し方も仕草も、何もかもが変わっている。

だから、そういう写真を見ても私の心は痛まない、ただささくれのように細やかな刺激があるだけ。

 

 

傷付いただけでは美しくない。

その痛みを受け入れようとし始めた時、ようやく寂しさが顔を出す。

この痛みと生きるしかない、受け入れるしか選択肢がないのだと思った時、痛みが諦めへと変わり始める。

諦めきってしまうのは違う、廃人まっしぐらの道に綺麗なものは何もない。

傷付きたくない、期待を諦めるしかない、それでも誰か傍にいて欲しい、それでも今は痛みが酷いから期待を持てるほど勇気が出ない云々。

そういう感情の相克の中でしか、私たちは生きる道を与えられていない。

その激しい感情の混淆が落ち着きを見出す場所が、切なさや悲しさ、寂しさなのだと思う。

「この身の始末をどうしよう」という言葉が、あの雰囲気が生まれるのはこの地点なのだ。

 

 

私はこれまで何を諦め、何を期待したのだろう?

諦めたもの、手放したものを数える行為そのものが何となく寂しい。

手に入れているものを数えるのではなく、私はいつまでも幻想の中に浸っていたいらしい。

私はやはり小説ではなくても良いから、文学の世界で生きていきたい。

世俗に染まろうと2年ほど思考回路を切り替えてみたものの、少しでも感動するものに出会ってしまうとその気持ちが首をもたげて来る。

最後の忠臣蔵もそうだし、先日放送されていたTHE Wもそうだし、関取花の曲もそうだ。

私の心を揺さぶるものが多い、多すぎる。

 

 

本当に私の手に届かない夢ならば諦めも付くけれど、こういうタイプの直感がある時にはどこかに居場所があるはずなのだ。

私のこれまでの人生の中ではこういうタイプの直感が外れた事がない。

文学の世界ではないかもしれないけれど、何か芸術の世界に私が見落としているものがあるはず。

早くそこを見つけて、呼吸をしたい。

私の精神は窒息しかけているような窮屈さに耐えきれずにいる。

 

この記事を書きながらずっと聞いていた曲を貼り付けておくので、寂しくなりたい人は聞いてください。

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ものと自分の関係を味わう人

休みの日になるとどうしてもブログを更新したくなってしまう。

仕事がある日だと嫌というほど文章を書いているし、疲れているという事もあって自分の書きたいような事を書けない。

休みは貴重な自分の文章を書ける時間がたくさんあるので、それが一番嬉しい事かもしれない。

 

 

私は散歩をするのが好きでよく物思いに耽りながら川沿いを歩いていた。

今の家に越す以前は川がとても近くにあり、清流の音を聞きながらただぼんやりと過ごすのが本当に好きだった。

梅雨の時期になると蛍が飛ぶほど水が清く、夜になると奈落のように黒くなる川の表面が光を少し反射させていた。

あの場所でタバコを吸いながらココアを飲んでいると、私はこの時間を味わえただけで心でも良いくらいだと満足感を噛み締める事が出来たのだ。

 

 

私は特に死にたいとか、生きたいとか、そうした欲求がないのかもしれない。

あと10分の命ですと言われたら、出来るだけ身に周りを片付けてその時を静かに待つ事が出来ると思う。

それなのに文章を書きたいとか、音楽を聴きたいとか、そうした雑念の強さだけは尋常ではない。

執着をしているという事なのだろうか?

であれば、私は生を渇望している事になる。

 

 

 

渇望。

今何気なしに書いたこの言葉、渇望。

なんて良い言葉なのだろうか。

私が最近、何かを渇望した事があっただろうか?

それほど切実に誰かを、何かを求めた事があっただろうか?

おそらく、あるのだと思う。

私は期待する傍からそれが裏切られ、私が描いていた珠のように美しかった希望が無残にも散り散りになっているその様を見るのが嫌なのだ。

何かを渇望しようと思った矢先に、おそらくは反射のようにしてその期待を抑圧している。

期待をした後には悲しい思いが待っているというのが私の経験則であり、人生。

おそらく、多かれ少なかれ成人している人間は同じような面があるように感じられる。

大人になるという事は期待をしなくなるという事なのだろうか?

 

 

私はそうは思わない。

世間の同い年以上の人間を見ていると期待をしなくなっているのではなく、ただ鈍麻しているだけのように感じられる。

悲嘆に暮れずに済むために、懊悩の底に落ちないように、憎しみで自分を灰にしないために、大人になれば必ず保険を掛ける。

人生の中にある起伏を少しでもなだらかにしようと東奔西走しているうちに、人は疲れ果てていくのだ。

疲れている時には感情が鈍磨する、反応出来るものが少なくなる。

眠りに落ちる直前、誰かに話しかけられた時のように、刺激を受けた事を自覚していても体は動かない。

そう思うと人が動物である事を諦める点に、社会人の本懐があるのだろう。

何と切ない事だろうか。

 

 

私が愛する小説家、重松清は喉の内側を伝う涙があるのだと言った。

泣いているように見えなくても、大人はそのようにして泣いているのだと。

美しい表現だと思い、私はその言葉を何度も何度も往復した。

それでも私には分かる。

そんな大人などいるはずがないという事が。

 

 

大人になり家庭や子供を持つと、そのような感受性は殺さなければいけない。

仕事や金、対人関係に辟易としている最中で感受性は自分を殺す呪いにもなる。

あらゆる事に対して眠る直前の姿勢で臨まなければ、人の心など簡単に息の根が止まるのだ。

それが出来なければ社会不適合という烙印を押されるのだけれど、それに何の不都合があろうか? という気持ちがある。

私は社会不適合でおよそ一般的なものからかけ離れているらしいが、その状態に満足をしている。

夏目漱石は芸術家タイプの人間は「ものと自分の関係を味わう人」だと言った。

商人は「ものと自分の関係を改造する人」、学者は「ものと自分の関係を明らかにする人」。

私は何かを味わうというのがつくづく好きなようだ。

 

 

 

そう考えると私が川辺に座り込み、ただぼんやりと水の音とタバコがチリチリと燃える音をただ味わっていたのも理由が分かる。

皮膚の下に寒さが沁み込む今日のような日は、よくあの川へ行き煙なのか吐息なのか分からなくなっている白い気体をただ眺めていた。

 

立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花

私には事あるごとに眺めてしまうTwitterのアカウントがある。

もう更新はされていないし、ツイートなども非公開になっているのだが、なぜか私がいいねしているものだけは非公開になっている今でも見る事が出来る。

それはいわゆる裏垢というやつで、援助交際をしている成人女性のアカウント。

 

別に私が援助交際をする目的でその人のツイートにいいねをしたわけではない。

その人は金目で援助交際をしていたのではなく、その目的は自傷だった。

傷付いていく自分を感じるのが好きというか、その感覚を味わいたいとよく書いていた。

 

後悔をするためにセックスをしたいそうだ。

自分自身が空虚で何者でもないというその実感が生まれた時、彼女は異性を求めるらしい。

そのツイートが私から見ると一種の詩のようにすら感じられ、今でも寝る前に見返してしまう事が多い。

 

私はどことなく彼女の気持ちが分かる。

もちろん、援助交際などした事はないけれど、後悔をするために異性を求めるというのは以前の私そのものだ。

どうせ後悔しかしないと分かっていても、私は自分の人生に少しでも泥を塗りたくなって異性を求めていた。

自分が禄でもない人間なのだと確かめたい気持ちがあったのだ。

 

最近ブログ上で肉体関係の話が多過ぎるのは、私の周りでそうした出来事がよく起きているからだ。

男は30を越えるとモテるというが、女性は単に年上が好きなだけなのではないだろうか。

小学生が中学生に恋をするように、高校生が大学生と付き合って自慢げになるように、いつまでも男は女のアクセサリーでないのかもしれない。

 

私は貞操観念が普通とは異なっていると自覚しているけれど、誰彼構わず受け入れるわけではない。

特に駆け引きをしてくるタイプには辟易としてしまう。

これみよがしに性的な話題をチラつかせたり、ヌードモデルをやっても良いと言い出す。

私がヌードモデルを募集しようと企んでいたのは何年も前の話だし、結局のところ勇気が出ずに募集すらかけられなかった。

 

 

結局のところ誘われるのを待っているのだろうけれど、誘ったとしたらしたで面倒なやり取りが待っているに違いない。

そもそも私から誘う場合には大前提として面白いと思っている相手でなければならない。

その面白さは服装だったり、好みが奇抜という事ではないのだ。

生きざまと言えば大げさに過ぎるけれど、真剣に生きているのにどこか滑稽さがあるような雰囲気を出している人でなければならない。

チャップリンが言うところの人生はショートシーンで見れば悲劇、ロングシーンで見れば喜劇という、そういう雰囲気が人の面白みなのだ。

奇抜さを演出しなくても拭いきれない異質さがあれば、私の心は打ち震えるけれど、ただ裸体やらを見せて良いと言われても面白さの欠片もない。

 

 

今日は苛立っているから日記の内容もどことか刺々しい。

しかし、私はあまり感情を表に出さないタイプなので、こういう日は貴重なのだ。

残しておいて、後で見返したら面白いかもしれないと思って、過剰に怒りを出している節がある。

 

私は奇抜なものが嫌いで、ロリータファッションが嫌いで、音痴が嫌いで、都心が嫌いなのに今日はその全てが揃ってしまったからしょうがない。

最初の3時間くらいはまだ我慢が出来たけれど、夕方を越えてきた当たりで不機嫌丸出しになってしまった。

歌もじっくりと聞いていたいし、じっくりと歌いたいからただ奇抜なだけの歌や、ピロピロと電子音姦しい曲は大変に苦手なのだ。

それなのに余裕ある大人ぶって聞き流していた当たり、思い出すと自分が痛々しい。

 

ああ、こんな日記にするつもりではなかったけれど、八つ当たりのような文章になってしまった。

たまにはこんな日があっても良いのかもしれない。

いつもはただ世界を傍観しているような雰囲気を出しているのに、今日は俗世にどっぷりと浸かっている雰囲気がある。

世俗の塊のような渋谷に何時間もいたせいだと思う事にする。

幸福と虹とロープ

私の愛する稀代の作詞家、吉野弘は虹が空中に大きな弧を描き、そして地面にその光を降ろしている様子を見た事があるらしい。

その七色の光は小さな村を包み込んだ。

しかし、村の人間は誰一人として家から出てこようとはせず、虹に包まれている事すら気付かないままだった。

 

幸福も同じようなものなのかもしれない、と吉野弘は考えた。

 

気付かないところに幸福の神髄があるとするのならば、人の人生というのはいかに空しいものなのだろう。

誰もが幸福になりたいと願いながら、幸福に気付ける人はいない。

幸福であるのに、それに気付かない。

幸福になりたいと願うその瞬間こそが何よりの贈り物なのだと、そう思える人間はいないのだ。

 

こんなことを考えているのは今日ボランティアの関係で知り合った人と会って来たからだ。

彼はPTSDだとカウンセラーに言われたらしい。

生きる意味とは何なのだろう。

水火の苦しみに耐え忍び、それでも自分以外の人間のために生きようとするその有様は、人生の素晴らしさではなく人の世のおぞましさを感じさせる。

 

苦しみながらも生きる意味とは何だろう?

 

私は今、とても穏やかな毎日を送っているから、苦しみを背負っている人独特の重量感を受け止める準備が出来ていなかった。

生や死と直面する毎日は人を研ぎ澄ませる。

彼自身は疲れ果てているのだろう。

それは分かった。

しかし、あの鋭い何か、私の方向ではなく彼の方向に向いている切っ先には迫力があった。

 

「気が付いたらこの年齢になっていた、人生って短い」

 

そんな言葉を聞くたびに私は自分とは全く異なる世界で生きている人なのだと感じる。

確かに私も28歳くらいからは人生があっという間に感じるようになった。

吉野弘が言うところの虹に包まれている状態なのだろう。

 

しかし、28歳までの人生があまりにも長かった。

 

精神だけは老人のように感じるのに、体は生命力を爆発させているのが嫌だった。

人生が短いと感じられるのはその道程につまずいた事はあっても、立ち上がれないと思った事がないという意味だ。

全力で走っている時の1秒と、スマホをいじっている時の1秒が同じ時間に感じられないのと同様なのだろう。

全力で100m走らされた直後に、今度は400mを走れと言われ断る事が出来ない事態に連続して遭遇すれば人は簡単に壊れていく。

もう立ち上がれないと思っても、休みが必要だと感じても、状況や環境がそれを許してくれない。

 

やがて枯渇した生命力はもう生きる事が出来ないと自らに訴える。

 

そして、あのロープが近付いてくるのだ。

あのロープは私や彼が、そして私たちと同じような世界にいる人間が首を差し出す瞬間を待っている。

そう思うと首を吊るための道具でしかないロープが、何となくいとおしいもののようにも感じられるのだ。

苦しむだけ苦しみ、もう希望が何もないと感じた人間が最後に触れるのは愛してくれる家族や友人、恋人ではなく毛羽立った武骨なロープ。

ロープは黙ってその苦しみを肉体から解放してくれる。

 

別に私は今、何か気に病んでいるわけでもなければ、落ち込んでいるわけでもない。

 

ただ文字を打っているだけなのに、おそらくこれを読んだ人の脳裏には病んだ人間が薄暗い部屋で文章を作っているように感じられるのだろう。

見えた映像を言葉にしているだけなのだ。

人と話している時や文章を書いている時、私には風景が脳裏に浮かぶ。

それを文章にすれば不思議と読めるようになっているのだ。

 

久しぶりの更新だからあちこちへと意識が飛んで、支離滅裂な文章になっているけれど。

 

暗い世界には暗い世界の良さがある。

淫靡なものにも明るいものにもうるさいものにも小さなものにも、何もかもに良さがある。

世界は美しいもので満たされているのに、私の関心を引くものは煮え切らないものばかり。

白とも黒とも赤とも青とも言えない、あらゆる色が混ざり合っているけれど汚いとは言い切れない不思議なものが、私の関心を引くのだ。

やっぱり私は人が好きなのだろう。

この煮え切らなさは誰もが持っている本性だと思う。

良い人でも悪い人でもない、清潔でも不潔でもない、大きくも小さくもない、何とも形容しがたい何か。

それが私であり、あなたなのだろう。

トンスラ

私が吉高由里子にハマったのは今から10年前にやっていた深夜ドラマだった。

「トンスラ」という文章を書けなくなった小説家の役を彼女がしていた。

私はそのあまりにも異様な雰囲気を放っている若い女性が、吉高由里子という名前という事すら知らなかった。

そして、彼女の役に非常に強い影響を受けたように思う。

 

今から10年前、私は大学生だった。

 

大学二年生という時期を私はただただ無為に過ごしていただけだったのだ。

同じ大学に通う人間を心の底から見下していたし、成績だけは良かったからその傲慢さに拍車がかかってしまった。

20歳という年齢は私にとって意味がなかった。

若い、何でもできる、可能性に満ちているという話の全てが私の心の表皮をなでていくばかり。

その実、私は人生に絶望をしていた。

 

そんな折、吉高由里子が演じる役が「やりたくなったらやれば? そんなもんでしょ、男と女なんて」というセリフを言ったのだ。

私はその言葉に影響を受けたように思う。

言葉そのものもそうだけれど、人生や生きるという事についての諦観が極まっているその雰囲気が好きだったのだ。

当時の私の心境を言葉にすれば、きっとこんな雰囲気になるのだろうと感じた。

 

何もセックスに限らない。

 

死にたくなったら死ねば? という言葉に置き換えても使える雰囲気が漂っている。

私は楽しい事が好きな人間だと自覚をしているけれど、もう精神の至る場所が壊死している。

そんな自分を表現してくれる言葉を探してるのだ。

 

先日、友人と話している時「〇〇君(私の事)のタイプが分からない」と言われた。

私は非常に身持ちが堅い人間に思われていて、軽はずみに肉体関係を持たないように思われているらしい。

もちろん、そういう面はある。

しかし、私が面白いと思った異性が良いと思ってくれるのなら、結構簡単に肉体関係を持つ。

一般的な性欲にかまけて誘うタイプではないから身持ちが堅いと思われているだけなのだ。

 

私は時折、濁流にのまれているだけのような気持ちになる。

 

あちらこちらへと関心が飛ぶし、行動を起こそうと思ったらすぐ動いているけれど、実は振り回されているだけなのかもしれない。

私は今日も煮え切らない一日を生きた。

不倶戴天

スマホから更新をするのは三回目だ。

ボランティアで知り合った二人と居酒屋と喫茶店を梯子した帰りの電車内でこの文章を書いている。

スマホだと文章を作る速度が遅すぎて書く意欲が損なわれるけれど仕方ない。

 

私は初対面の人を相手にするとマウントを取ろうとするらしい。

 

その後、勢いをつけて否定した事からも分かるように全くの図星なのだと思う。

しかし、これには条件がある。

私の前で知識をこれみよがしに披露してきた相手に対してだけ、そうなってしまうのだ。

空手や伝統芸能という縦社会で生きてきた事が仇になっているのかもしれない。

私は相手から威嚇されたり見下されたとに感じると、攻撃的になる傾向があるのだ。

 

空手や伝統芸能の世界は縦社会で、私よりも知識が技量が劣るような人間でも年齢が上だという理由だけで上に立つことができる。

そして、立場が下の人間には何をしても許される。

暴力もいじめも肯定されてしまうのだ。

辛酸を何度も舐めながら私が強い大人になった時には必ず復讐してやると誓った。

私は幼い頃から実力だけでは負けたくないと思い普通以上に努力をしたように記憶している。

それは立場の上下しか見ていない人間を地獄に落とすたに必要な努力であり、だからこそ無理もした。

 

今でも私にとって年長者や立場が上の人間は駆逐する対象であり、敬うものではないのだ。

 

内容の充実している人ならば立場や年齢の上下は気にせず尊重する。

立場や年齢という日本人ならば暗黙の了解で尊重しなければならないものが、私からはがらくたにしか見えないのだ。

 

私が初対面の人なら誰であってもマウントを取っているわけではない。

必ず見下す何かを相手が出しているのだ。

それに対抗しようと試みているのだがむしろ、そんな自分を臆病で愚かだと思う。

それでも私は反骨心を捨てられずにいる。

 

私は今でも幼い頃に受けた理不尽な仕打ちを覚えていて、それに振り回されているのだ。

愚かとしか形容しようのない顛末に、私はただただ嘆息を吐くしかない。

 

私は30才を越えた今でも、9才の頃の痛みに怯え心を緊張させている。

 

果たす相手のいない復讐心が、炭火のようにゆっくりと私を焼いていくのだ。

そんな事実に気付かせてくれた8才も年下の友人に感謝するしかない。

救われるべき、癒すべき私はまだいるのだ。

復讐心に焼かれ塵芥になる前に、私は私を見付けることができた。