私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

馬小屋

昨日の夜は幼馴染と二人で私の好きな沖縄料理屋でお酒を飲んでいました。

 

と言っても、私はアルコールアレルギーなのでジュースだけ飲んでいたのですが。

 

昔話というのは楽しいものがありますね。

 

その幼馴染とは中学一年、二年の時に最も親しくしていたのです。

 

近所にある馬小屋で馬の世話を毎日していた時期であり、私の青春はその二年に凝縮されていると言っても過言ではありません。

 

おそらく、人生の中で最も楽しい思い出が詰まっている時期こそが中学一年、二年の頃だったと言って良いでしょう。

 

恋愛もしていましたし、典型的な甘酸っぱい友情の浮き沈みも経験したのがその時期でした。

 

馬小屋の前には同級生(女)の家があり、幼馴染はその同級生が好きで好きで仕方なかったのです。

 

それと同時にその同級生と最も親しくしていたのが私の好きな子で、私の思い人は毎日のように馬小屋の前にある同級生の家に尋ねていました。

 

つまり、私と幼馴染の好きな相手がすぐ近くにいたので、何とか接点を持ちたいという気持ちから馬小屋に行っていたような面もあるという話なのです。

 

また中学時代は私が空手の道場で最も苦痛を味わっていた時期でもあります。

 

何本骨が折れたのかすら覚えていませんし、その時期は道場へ行くたびに怪我をしていました。

 

道場へ行くのは本当に辛く、稽古の日は朝から憂欝だったのですが馬の世話をするという毎日の楽しみがあったからこそ耐えられたのだろうと思います。

 

昨日、そんな話をしていて私は充実し時期を過ごしていた事もあったのだと思い出しました。

 

十代の頃は嫌な記憶しかなく……いえ、十代に限った事ではありません。

 

私の人生には嫌な記憶しかないと言っても良いくらいのものです。

 

しかし、そんな私の人生の中にも大切にしたいと思える記憶があった、経験があったのだと思うと不思議な気持ちになります。

 

中学時代に戻りたいとは、やはり思いません。

 

毎日馬小屋の世話をしていた時のあの楽しさは一生忘れられませんが、それと同時に私の生活は苦渋に満ちていましたから。

 

また中学生の時からやり直しをしなければいけないと思うと、目の前が真っ暗になる感覚さえあります。

 

それでも私の人生の中に楽しい事があったのだと思い出せたのは、本当に良かったと感じているのです。

 

苦しいだけの人生ではなかったのだというその一点が、私の人生を少しでも救いようのあるものに変えてくれる要素になるかもしれません。

 

気が付けば私は三十代に足を踏み入れています。

 

あの頃からもう十五年も経っているのです。

 

私はこの十五年、懊悩を続けてきました。

 

人生や運命、そして自分自身を呪い続けた人生だったと言っても良いでしょう。

 

しかし、私の人生の中に通底する深い怨念、虚無感のようなものが、昨日少し和らいだようにも感じられました。

 

それだけ純粋に生きていたという時期を思い出したからなのかもしれません。

 

思い出話をするようになったら中年の証だと思っていたのですが、思い出話の良さを感じるというのも悪くはないのかもしれません。

雪と空蝉

二週続けて積雪という事で私としては複雑な気持ちになっています。

 

雪はとても綺麗だし見ているのが好きなのですが、交通の便という事で考えるとやはり面倒だと感じてしまいますね。

 

駅まで原付で行くのが最も手軽なので、その手段が奪われてしまう事には苛立ちのような落ち込みのような感慨があるものです。

 

それでも雪が降った後の様子を見るのは好きです。

 

なぜ雪化粧をした風景が好きなのか、今ぼんやりとベランダでタバコを吸いながら考えていました。

 

真っ白に染まった風景は全てを零へと還してくれたように感じるのです。

 

陰惨な過去もろくでもない自分という人間も、何もかもが無に帰したのだと感じられる風景が私はとても好きなのです。

 

今から全てをやり直す事が出来る。

 

そう感じられる瞬間、そう思わせてくれる情景が雪から生み出されているのです。

 

だから、私はずっと眺めていたいほどの感動を覚えるのでしょう。

 

冷たく凍ったようにも見えるその風景、今後何の変化も起こらないように見える様子が私の心を慰めてくれるようにも感じるのです。

 

無というのは私を掴んで離さない概念でもあります。

 

それを象徴的に見せてくれているような気がして、私は雪に染まった風景に言葉を失うほどの感動を覚えます。

 

決して悲観的になっていたり、落ち込んでいるわけではないのです。

 

私はいつでもこうだし、さっきまでガキの使いを見ていたので結構笑っていました。

 

しかし、私が返って来る場所はやはりここ、無の地点、無の場所。

 

何も手に入らない人生、何も失われない命のはずなのに、私たちは何かを手に入れたと思い込むし、何かを失ったと嘆くのです。

 

何も手にしていないのに。

 

人生はショートシーンで見ると悲劇、ロングシーンで見ると喜劇だとチャップリンが言ったように、何も手に入れていないのに何かを失ったと嘆く姿は遠くから見ると滑稽なものなのでしょう。

 

空蝉という言葉がしっくりと来る感覚を覚えてしまいますね。

私は異端児なのです

性格診断やら適職診断が思いの外好きであり、ちょっと見掛けてはやってみてしまうという行動をよく取ります。

 

ちなみに今日やってみたのはこちら

 

無料性格診断テスト、性格タイプ詳細説明、人間関係およびキャリアのアドバイス | 16Personalities

 

なぜこうした診断が好きなのかといえば、私はどの診断をやってもかなりの少数派に分類される事になり、ちょっとした異端児気分を味わえるからなのです。

 

ちなみにこの診断では建築家タイプと出ました。

 

ちょっと一部を抜粋してみましょうかね。

 

この上なく孤独、そして最も希少で戦略に長けている性格タイプのひとつで、建築家型の人達自身、これをすべて痛いほど感じています。全人口のわずか2%を占めていて、特に女性が珍しく、全人口のたった0.8%です。

 

となっています。

 

私の異端児気分を高めてくれるには十分な説明だと言って良いでしょう。

 

読み進めていくと、あの手この手で褒めてくれるので気分は上々です。

 

伝統を忌み嫌う性質と出てきましたが、私は伝統芸能を20年以上もやっているし、日本の伝統文化の一つである空手道では三段を取りました。

 

なので、個人的には思い切り伝統的な人間だと思ってきたのですが、確かに思い当たる節がなくもありません。

 

実用的かどうか、機能するかどうかが私にとっては非常に重要な点になります。

 

どれほど荘厳で威風堂々としていても、その伝統が現在の社会の中で機能していないのであれば、それはただのハリボテなのではないか? と思ってしまうからです。

 

もちろん、伝統の意義というのは実用的かどうかだけで判断するものではありませんが、私としてはどうしても機能美を目指してしまいます。

 

さてさて、皆さんもこの診断をやってみて自分を見つめ直す一助にしてみてください。

「良し悪しはない」という口癖について

久し振りの更新となりましたが、私は案外元気です。

 

最近は疲れている事が多く休みになるとブログの更新をする元気がなく、ぼんやりとしてしまう事が多くなりました。

 

そんな具合でブログの更新が滞りましたが、相変わらず一人であれこれと考えています。

 

今日まとめたいと思っているのは言葉についてです。

 

最近口癖のように「良し悪しはそこに関係がない」と言ってしまうのですが、こんな事は自分の人生を生きているのであれば起こり得ない事だと断言出来ます。

 

良し悪しがない世界というのは小説で言うところの神の視点であり、誰の立場でもないところから話し、考えている証だと言って良いでしょう。

 

つまり、良し悪しがない世界観というのは誰の世界でもないのです。

 

自分の人生なのに誰の人生も生きていない瞬間が生まれるという話になります。

 

なぜなら、良し悪しは価値観から生まれ、その価値観から逃れる事が個人には出来ないからなのです。

 

経験した事、学んだ事、生まれ持った性質や観点、感性や体の造りなどから価値観が醸成されます。

 

例えば20代でこれから人生を楽しもうと前向きに考える人もいれば、20代まで生きて人生に辟易としてしまったからもう寿命が来てほしい、と願う人もいます。

 

これは20代という同じ条件を持っている人同士という共通点こそありますが、向いている方向が正反対になっています。

 

希望を持っている人は快活に、絶望している人は淡泊に人生を過ごしていくでしょう。

 

こうした価値観によって人の生き方は決定されて行きますし、当然のように善悪が明確になるのです。

 

自分の人生はこうしたものだ、この立場から生きるのだ、この観点こそが自分の生き様なのだ、と言ってこそ初めて言葉は自分のものになります。

 

つまり、良し悪しがないという世界から一歩進み、自分の世界とはこれが悪でこれが善なのだと伝えて初めて、自分が言葉を使う意味を持つのです。

 

良し悪しがないと言ってしまえばそれで角が立たなくなりますし、人と衝突する事も避けやすいでしょう。

 

しかし、そこに浮かぶ言葉は無味無臭で、清潔ではあるけれど毒にも薬にもならない、もっと言えば話す価値があるかどうかさえ疑わしい、ただ日本語の規則に従っただけの音なのです。

 

もちろん、自分自身の善悪を人に押し付け始めた時には、どのような高邁な思想に基づくものであってもそれが害悪と化します。

 

人に向けるためではなく、自分自身に向けて「私は(俺は)こういう人間なのだ」と自覚するためにはやはり善悪のはっきりとした、偏りのある価値観を受容しなければなりません。

 

綺麗に生きよう、矛盾のない論理に従おうとすればするほど確かに善悪から遠ざかる事は出来ますがそれによって自己の同一性が損なわれ、己が何者であるのか? という点が朧になります。

 

結果として誰からも嫌われたくない、もっと自分を認めて欲しいという欲に足を絡め取られ、毒にも薬にもならない言葉を吐くのです。

 

誰もが逃れられない穢れのようなもの、狭隘で不格好で浅薄な自分自身を受け止めなければ、自分の人生を生きるというのは難しいでしょう。

 

私はそんな自分に絶望をするし、そこから逃れられない自分自身を痛感せざるを得ません。

 

だからこそ、私は私の人生を歩んでいるとも言えます。

 

その道が好きか嫌いかという問題ではなく、その道が私の人生という事なのです。

 

論駁したりされたりという時間はあまり好きではありませんが、自分の好みすら堂々と表現出来ないような人生ならば首でも括った方が私にとってはマシなものです。

 

生まれたいと思って生まれたわけではない人生に翻弄され、ただお行儀良く生きるのは嫌なのです。

 

どこかで、何かしらの方法で人生に反撃を食らわせてやりたいという気持ちが、私の人生を通底する生きる力だと言っても良いかもしれません。

 

だからこそ、私は私の価値観によって象られている人生を歩むし、唯々諾々と何かに従う事が出来ないのでしょう。

 

今日はこんなところでおしまいにしておきます。

一年を振り返り

まだ仕事期間中なので長い文章を書く事は出来ないけれど、何となく今思うところを残しておこうと思う。

 

一年を振り返り思うのは、今年も生きたのかという淡い実感があったという事だけだ。

 

仕事をしていると一年がすぐに過ぎていく。

 

不眠症は未だに抱えているけれど、それでも路頭に迷わないだけありがたい。

 

特に死にたいというわけではないけれど、生きていたいとは全く思わない。

 

すぐに一年が過ぎるのなら、この積み重ねで人生の終わりが早くやって来ないものかと考えてしまう。

 

同年代や後輩たちの話を聞くと、今までの人生はあっという間だという人ばかりだ。

 

これからの人生を悔いなく生きよう、という話をよく耳にする。

 

私は本当に彼らと同じだけの年数を生きたのだろうか? と怪しく思う事が少なくない。

 

私は人生はもう十分に生きたと思っているし、悔いなく生きようではなく、悔いはあるけれど既に人生を”生きた”と感じているのだ。

 

疲れ果てているというほどの悲壮感は漂っていない。

 

疲れ果てた過去を思い返して、もう戻りたくはないと遠くから自分の人生を眺めているような心持ちがある。

 

しかし、まだ私の年齢を考えてみるとちょうど三十歳なのだから体はまだまだ死なない。

 

男は三十からという言葉があるように、これから働き盛りがやって来る。

 

十代の頃からの癖だけれど、私は自分の精神が老人のように感じる事がある。

 

周りと比較するとあまりにも年老いているのだ。

 

体だけが若い老人というのは私の目から見ると悲劇でしかない。

 

今年も生きた、おそらく来年も生きるのだろう。

 

疲れ果てた精神に体が追いつき、瞑目する時が来るまでこれが続くのかもしれない。

抜け殻

先月から風邪気味で結局本格的に治るまで一ヶ月以上も掛かってしまった。

 

仕事をして寝込んでを繰り返しているうちにもう年の瀬を迎えている。

 

誰とも会わない生活を続けていると、何とも言えず気持ちが落ち込んでいくものだ。

 

人は嫌いだから会えば疲れるだけなのに、隔離されたような生活になればそれはそれで精神衛生上良くない。

 

似たような気持ちになった事があるような気がして過去を振り返ってみると、ちょうど24歳から27歳に掛けてこんな気分になる事が多かったと思い出した。

 

毎週金曜日にドクターペッパーを買うのだけが楽しみだった時期だ。

 

金曜日は似たような友人たちと集まって夜な夜な遊んでいたし、朝まで話している事も少なくなかった。

 

習い事は全て辞めて、自分だけの世界を小説にしようと奔走していた頃は誰にも会いたくなかった。

 

生きるために最低限必要な金額だけ稼ぎ、後は小説を書いたり、血眼になって勉強をしていた。

 

仄暗い風景がいつでも見えていて完全な絶望は見つからないけれど、ため息を吐きたくなるようなものばかりが視界に入って来ていたように思う。

 

散歩をしていても誰かと話していても、話していなくても、人生なんてものは碌なものではないという気持ちが私の中には根強くあったのだ。

 

もちろん、今でもそのような気持ちは変わらないのだけれど、以前よりも悲壮感が薄れたように思う。

 

私は今、ただ人生を眺めているような気にさえなる。

 

絶望的で救いのない事ばかりが起きるのを、ただただ見ているだけ。

 

ずいぶんと前から私は抜け殻のようになっているのかもしれない。

 

表向きにはやるべき事に追われているし、知識も技術も上がっているのだから抜け殻のようには見えないのだろう。

 

それでも私は今、抜け殻になっている。

 

何かを頑張ろうとか、明るい未来に向かって、という気分にはなれない。

 

そもそもそんな未来が見えていた時期など私にはない。

 

特に落ち込んでいるわけではないのだけれど、私の見えている世界を外に出すとそれだけで風景が暗くなる、人の表情も陰ってしまう。

 

ここまで文章で自分の気持ちを表現するのが下手になるとは思っていなかった。

 

やはり小説は書いておかなければいけない、自分をしっかりと表現するために。

 

とにかく、今は元気なのだけれど抜け殻として元気という事なのだ。

望みが叶う事は本当に良い事なのか?

望みが叶う事は本当に良い事なのだろうか?

金持ちになりたい、出世したい、有名になりたい、綺麗になりたい、強くなりたい、健康になりたい。

 

こうした望みが叶う事は本当に良いのだろうか?

 

というのも、こうした心情は望みと言われれば響きは良いけれど、欲望である事が明白だからなのだ。

 

欲望が満たされる事が幸福なのだとしたら、私たちの人生とはなんと虚しいものだろう。

 

欲望が私を振り回しそれを満たす事に傾倒しながら一生を終えるのだとすれば、それは欲望が私の人生を支配したという事であり、私は私の人生を生きたとは言えないのではないか?

 

欲望=私ではないことは自明なのだから、私は欲望に支配されるのではなく、欲望を私の一部として支配しなければならない。

 

自制心の美徳はおそらくここから生まれているのだろう。

 

やりたいけれど出来ないところに自制心の美学はない。

 

やりたいけれどやらないところに自制心の輝きがあるのだ。

 

そうしなければ欲望は無尽蔵に肥大化し、私の人生事飲み込んでしまうだろう。

 

もちろん、欲望が満たされる事には快感が伴う。

 

その快感が幸福ではないと言い切る事も出来ない。

 

また欲望は必要なものでもある。

 

たとえば食欲や睡眠欲は生きるために不可欠な要素だろう。

 

それ故に欲望を全て捨て去ろうというのは全く見当違いの話なのだ。

 

欲望は生きるために必要だが、欲望の充足を主体にして人生を過ごすというのは虚しいのだ。

 

要はバランスの問題という事になる。

 

欲望を満たす事も大切だがそれだけではなく他にも追い求めるもの、大切にしておきたいものが自分の人生を生きるために必要なのだ。

 

やはり人は二面性を持っている、どうしようもない矛盾した二重性の中で生きるしかない。

 

欲望を満たしたいという気持ちと、欲望に振り回されたくないという思いが相克し、それで今の私を象っている。

 

欲望だけではない。

 

おそらく、私の中にある善悪も生死も美醜も真偽も何もかもが、このように相反し混交しているのだ。

 

もっと語りたい事があるのだけれど、これ以上やると熱が上がりそうなのでやめておく。