私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

「良し悪しはない」という口癖について

久し振りの更新となりましたが、私は案外元気です。

 

最近は疲れている事が多く休みになるとブログの更新をする元気がなく、ぼんやりとしてしまう事が多くなりました。

 

そんな具合でブログの更新が滞りましたが、相変わらず一人であれこれと考えています。

 

今日まとめたいと思っているのは言葉についてです。

 

最近口癖のように「良し悪しはそこに関係がない」と言ってしまうのですが、こんな事は自分の人生を生きているのであれば起こり得ない事だと断言出来ます。

 

良し悪しがない世界というのは小説で言うところの神の視点であり、誰の立場でもないところから話し、考えている証だと言って良いでしょう。

 

つまり、良し悪しがない世界観というのは誰の世界でもないのです。

 

自分の人生なのに誰の人生も生きていない瞬間が生まれるという話になります。

 

なぜなら、良し悪しは価値観から生まれ、その価値観から逃れる事が個人には出来ないからなのです。

 

経験した事、学んだ事、生まれ持った性質や観点、感性や体の造りなどから価値観が醸成されます。

 

例えば20代でこれから人生を楽しもうと前向きに考える人もいれば、20代まで生きて人生に辟易としてしまったからもう寿命が来てほしい、と願う人もいます。

 

これは20代という同じ条件を持っている人同士という共通点こそありますが、向いている方向が正反対になっています。

 

希望を持っている人は快活に、絶望している人は淡泊に人生を過ごしていくでしょう。

 

こうした価値観によって人の生き方は決定されて行きますし、当然のように善悪が明確になるのです。

 

自分の人生はこうしたものだ、この立場から生きるのだ、この観点こそが自分の生き様なのだ、と言ってこそ初めて言葉は自分のものになります。

 

つまり、良し悪しがないという世界から一歩進み、自分の世界とはこれが悪でこれが善なのだと伝えて初めて、自分が言葉を使う意味を持つのです。

 

良し悪しがないと言ってしまえばそれで角が立たなくなりますし、人と衝突する事も避けやすいでしょう。

 

しかし、そこに浮かぶ言葉は無味無臭で、清潔ではあるけれど毒にも薬にもならない、もっと言えば話す価値があるかどうかさえ疑わしい、ただ日本語の規則に従っただけの音なのです。

 

もちろん、自分自身の善悪を人に押し付け始めた時には、どのような高邁な思想に基づくものであってもそれが害悪と化します。

 

人に向けるためではなく、自分自身に向けて「私は(俺は)こういう人間なのだ」と自覚するためにはやはり善悪のはっきりとした、偏りのある価値観を受容しなければなりません。

 

綺麗に生きよう、矛盾のない論理に従おうとすればするほど確かに善悪から遠ざかる事は出来ますがそれによって自己の同一性が損なわれ、己が何者であるのか? という点が朧になります。

 

結果として誰からも嫌われたくない、もっと自分を認めて欲しいという欲に足を絡め取られ、毒にも薬にもならない言葉を吐くのです。

 

誰もが逃れられない穢れのようなもの、狭隘で不格好で浅薄な自分自身を受け止めなければ、自分の人生を生きるというのは難しいでしょう。

 

私はそんな自分に絶望をするし、そこから逃れられない自分自身を痛感せざるを得ません。

 

だからこそ、私は私の人生を歩んでいるとも言えます。

 

その道が好きか嫌いかという問題ではなく、その道が私の人生という事なのです。

 

論駁したりされたりという時間はあまり好きではありませんが、自分の好みすら堂々と表現出来ないような人生ならば首でも括った方が私にとってはマシなものです。

 

生まれたいと思って生まれたわけではない人生に翻弄され、ただお行儀良く生きるのは嫌なのです。

 

どこかで、何かしらの方法で人生に反撃を食らわせてやりたいという気持ちが、私の人生を通底する生きる力だと言っても良いかもしれません。

 

だからこそ、私は私の価値観によって象られている人生を歩むし、唯々諾々と何かに従う事が出来ないのでしょう。

 

今日はこんなところでおしまいにしておきます。

一年を振り返り

まだ仕事期間中なので長い文章を書く事は出来ないけれど、何となく今思うところを残しておこうと思う。

 

一年を振り返り思うのは、今年も生きたのかという淡い実感があったという事だけだ。

 

仕事をしていると一年がすぐに過ぎていく。

 

不眠症は未だに抱えているけれど、それでも路頭に迷わないだけありがたい。

 

特に死にたいというわけではないけれど、生きていたいとは全く思わない。

 

すぐに一年が過ぎるのなら、この積み重ねで人生の終わりが早くやって来ないものかと考えてしまう。

 

同年代や後輩たちの話を聞くと、今までの人生はあっという間だという人ばかりだ。

 

これからの人生を悔いなく生きよう、という話をよく耳にする。

 

私は本当に彼らと同じだけの年数を生きたのだろうか? と怪しく思う事が少なくない。

 

私は人生はもう十分に生きたと思っているし、悔いなく生きようではなく、悔いはあるけれど既に人生を”生きた”と感じているのだ。

 

疲れ果てているというほどの悲壮感は漂っていない。

 

疲れ果てた過去を思い返して、もう戻りたくはないと遠くから自分の人生を眺めているような心持ちがある。

 

しかし、まだ私の年齢を考えてみるとちょうど三十歳なのだから体はまだまだ死なない。

 

男は三十からという言葉があるように、これから働き盛りがやって来る。

 

十代の頃からの癖だけれど、私は自分の精神が老人のように感じる事がある。

 

周りと比較するとあまりにも年老いているのだ。

 

体だけが若い老人というのは私の目から見ると悲劇でしかない。

 

今年も生きた、おそらく来年も生きるのだろう。

 

疲れ果てた精神に体が追いつき、瞑目する時が来るまでこれが続くのかもしれない。

抜け殻

先月から風邪気味で結局本格的に治るまで一ヶ月以上も掛かってしまった。

 

仕事をして寝込んでを繰り返しているうちにもう年の瀬を迎えている。

 

誰とも会わない生活を続けていると、何とも言えず気持ちが落ち込んでいくものだ。

 

人は嫌いだから会えば疲れるだけなのに、隔離されたような生活になればそれはそれで精神衛生上良くない。

 

似たような気持ちになった事があるような気がして過去を振り返ってみると、ちょうど24歳から27歳に掛けてこんな気分になる事が多かったと思い出した。

 

毎週金曜日にドクターペッパーを買うのだけが楽しみだった時期だ。

 

金曜日は似たような友人たちと集まって夜な夜な遊んでいたし、朝まで話している事も少なくなかった。

 

習い事は全て辞めて、自分だけの世界を小説にしようと奔走していた頃は誰にも会いたくなかった。

 

生きるために最低限必要な金額だけ稼ぎ、後は小説を書いたり、血眼になって勉強をしていた。

 

仄暗い風景がいつでも見えていて完全な絶望は見つからないけれど、ため息を吐きたくなるようなものばかりが視界に入って来ていたように思う。

 

散歩をしていても誰かと話していても、話していなくても、人生なんてものは碌なものではないという気持ちが私の中には根強くあったのだ。

 

もちろん、今でもそのような気持ちは変わらないのだけれど、以前よりも悲壮感が薄れたように思う。

 

私は今、ただ人生を眺めているような気にさえなる。

 

絶望的で救いのない事ばかりが起きるのを、ただただ見ているだけ。

 

ずいぶんと前から私は抜け殻のようになっているのかもしれない。

 

表向きにはやるべき事に追われているし、知識も技術も上がっているのだから抜け殻のようには見えないのだろう。

 

それでも私は今、抜け殻になっている。

 

何かを頑張ろうとか、明るい未来に向かって、という気分にはなれない。

 

そもそもそんな未来が見えていた時期など私にはない。

 

特に落ち込んでいるわけではないのだけれど、私の見えている世界を外に出すとそれだけで風景が暗くなる、人の表情も陰ってしまう。

 

ここまで文章で自分の気持ちを表現するのが下手になるとは思っていなかった。

 

やはり小説は書いておかなければいけない、自分をしっかりと表現するために。

 

とにかく、今は元気なのだけれど抜け殻として元気という事なのだ。

望みが叶う事は本当に良い事なのか?

望みが叶う事は本当に良い事なのだろうか?

金持ちになりたい、出世したい、有名になりたい、綺麗になりたい、強くなりたい、健康になりたい。

 

こうした望みが叶う事は本当に良いのだろうか?

 

というのも、こうした心情は望みと言われれば響きは良いけれど、欲望である事が明白だからなのだ。

 

欲望が満たされる事が幸福なのだとしたら、私たちの人生とはなんと虚しいものだろう。

 

欲望が私を振り回しそれを満たす事に傾倒しながら一生を終えるのだとすれば、それは欲望が私の人生を支配したという事であり、私は私の人生を生きたとは言えないのではないか?

 

欲望=私ではないことは自明なのだから、私は欲望に支配されるのではなく、欲望を私の一部として支配しなければならない。

 

自制心の美徳はおそらくここから生まれているのだろう。

 

やりたいけれど出来ないところに自制心の美学はない。

 

やりたいけれどやらないところに自制心の輝きがあるのだ。

 

そうしなければ欲望は無尽蔵に肥大化し、私の人生事飲み込んでしまうだろう。

 

もちろん、欲望が満たされる事には快感が伴う。

 

その快感が幸福ではないと言い切る事も出来ない。

 

また欲望は必要なものでもある。

 

たとえば食欲や睡眠欲は生きるために不可欠な要素だろう。

 

それ故に欲望を全て捨て去ろうというのは全く見当違いの話なのだ。

 

欲望は生きるために必要だが、欲望の充足を主体にして人生を過ごすというのは虚しいのだ。

 

要はバランスの問題という事になる。

 

欲望を満たす事も大切だがそれだけではなく他にも追い求めるもの、大切にしておきたいものが自分の人生を生きるために必要なのだ。

 

やはり人は二面性を持っている、どうしようもない矛盾した二重性の中で生きるしかない。

 

欲望を満たしたいという気持ちと、欲望に振り回されたくないという思いが相克し、それで今の私を象っている。

 

欲望だけではない。

 

おそらく、私の中にある善悪も生死も美醜も真偽も何もかもが、このように相反し混交しているのだ。

 

もっと語りたい事があるのだけれど、これ以上やると熱が上がりそうなのでやめておく。

落下しているのに

明日から仕事で何万文字も文章を作らなければならないので、指のリハビリのためにブログを更新していきたいと思います。

 

さて、今日は少し暗い雰囲気のお話です。

 

個人的には暗いとは思わないのですが、今からする系統の話は暗い話として受け止められやすいのです。

 

それはさておき、最近私がよく考えているのはやりたい事が出来る人生は幸福なのかどうなのか? という事。

 

やりたい事に当てはまるものは何でも良いのです、人それぞれですから。

 

お金持ちになりたい、綺麗になりたい、強くなりたい、有名になりたい、というようなものが当てはまりやすいですね。

 

しかし、やりたい事というのは欲望と言い換えられます。

 

欲望に従って行動し、欲望が満たされる事が幸福なのだと思う人生は本当に自分が納得の出来るものなのかどうなのか、それが気になります。

 

つまり、それは「私」の人生ではなく「欲望」が私を振り舞わしている状態だと言っても良いからです。

 

もちろん、欲望が満たされる事に対して不快感はないでしょう。

 

それと同時にある欲望が満たされると、さらに強い欲望が生まれるというのがよく起きる出来事なのです。

 

最初は100万円あれば良いと思っていたけれど、100万円を手にしてみると次は1000万が欲しくなるというように。

 

その際限のない欲望の渦に巻き込まれていく過程の中で、自分の人生はいつしか欲望を満たすための手段に成り下がるかもしれません。

 

欲望が満たされる事が悪いと言いたいわけではないのです。

 

私が常に気にしているのはバランスであり、欲望もある程度は満たされる必要があるけれど、欲望を満たすのはあくまでも手段だと忘れたくありません。

 

欲望に流されやすくなっている時というのは、気持ちの移り変わりがとても激しくなっています。

 

物事の皮相ばかりが気になって、その真相について無頓着になるのです。

 

忍耐力がなくなっている状態と言い換えても良いでしょう。

 

流行に対してとても敏感になり、あれやこれやと目移りをしてしまう。

 

なぜかと言えば、欲望そのものが安定しているものではないからなのです。

 

次々へと新しいものが生み出され、広告され、放縦放埓な潮流が生み出されるのは欲望がそのような性質を持っているからなのでしょう。

 

ですから、私としては自分が流行を気にしだした時には一端止まるようにしています。

 

私の場合はそういう時に限って、大切なものを蔑ろにしている事が多いからです。

 

私はただ穏やかに毎日を過ごせるだけで無上の喜びを覚えられます。

 

もちろん、それ以上の幸福を拒絶したいというわけではありません。

 

しかし、今以上の幸福がなければ、今以上に欲望が満たされなければ不十分だと考えたくはないのです。

 

世の中では欲望が満たされる事それ自体が善である、幸福であるという論調が古来より語り継がれています。

 

欲望が満たされる事が幸福に繋がるという発想は、今の自分が幸福ではないという前提になっているのです。

 

欲望を追いかけ快楽を追求するという行動は幸福へと向かっているようで、実は永劫満たされる事のない渇きを覚えているようなものなのかもしれませんね。

 

我が愛する昭和のポエマー吉野弘が言ったように「落下しているのに、飛翔していると信じて」いる状態にも近いのでしょう。

 

私は私の欲望が何を欲しているのか? ではなく、私自身が何を求めているのか? を気にして過ごしたいと思っています。

この世はフィクションで出来ている

 

結局のところ、私たちは私たちの聞きたいものを聞き、見たいものを見て、無自覚のうちに自己にとって心地良い解釈の中で生きるしかない。

 

例えば私が今、誰かに向かって話しているとすれば、それは私が自発的に話をしているという面がある。

 

しかし、その時には私が話したいことを話したいように話すわけにはいかない事情がある。

 

相手に向かって話しているのだから、相手との話に合うような切り口で話す必要があるのだ。

 

つまり、自発的に話しているはずなのに、相手がいるという事情によって話を「させられている」という面もあるという意味になる。

 

1つの物事には必ず正反対の側面が生まれてしまうのだ。

 

私は今、呼吸をしているけれど体が強制的に私に呼吸を「させている」という面があるように、全ての物事には必ず正反対のものが付きまとう。

 

私は生きているけれど、生かされているし、文章を作るために画面を見ているけれど見「させられ」ている。

 

ありとあらゆるものが正反対の側面を持ち、それなのに1つのもの事や1人の人間として評価を下されるのだ。

 

ある人から見れば鬼のような人物であっても、ある人から見れば聖人君子のようにも映るのは何故なのか?

 

そこで最初の結論に戻る事になる。

 

つまり、人は見たいものを見て、聞きたいものを聞いて、考えたいように考えているのだ。

 

そうやって生きるしか、人には選択肢が残されていない。

 

自分自身の解釈の中で生きているから、同じ人に対する評価が正反対になる事がある。

 

それは人が持つ複雑さが顕現しているからと言うよりも、人それぞれが世界観を持っているからこそ良し悪しがはっきりとしてしまうだけなのだろう。

 

愛にしても死にしても、仕事にしても家族にしても、人はありとあらゆる対象に評価を下す。

 

そして、その評価は明らかに自己が作り上げたものであり対象の本質を映し出しているわけではないにもかかわらず、その対象の本質として認識する事になる。

 

アイツは良い奴だ悪い奴だ、アレは良いものだ悪いものだ、というように。

 

つまりは解釈次第という事になるのだけれど、この話が行き着く先は善悪の境界線がない世界なのだ。

 

何をしても解釈次第なのだからOKという世界の中で起きるのは、単純に力が強いものが這い上がり何をしても許されるのだという世界がやって来る。

 

それを防ぐためにホッブズリヴァイアサンの中で自然状態の悪辣さを指摘し、ソクラテスは善について説き、キルケゴールは絶望からの救いを訴えた。

 

何をしてもOKではない世界を作るために、社会という概念が生まれ、そこには国家という機能が配置されたのだ。

 

結局、社会というのはどこにも存在しない概念のものなのだ。

 

社会を指差して示す事が出来ないのは概念だからであり、存在するものではないという事情による。

 

国家も同じくそうだ。

 

愛も死も生も堕落も、何一つとして指差して示す事が出来ない概念上のものであり、人はそれが概念だと気付かず、当然存在するものとして考える。

 

全てはフィクションなのだ。

 

私たちが生きる世界の中に「真実」なるものは何一つとして存在しない。

 

あるものは解釈、ただそれだけ。

 

つまり、私の考える世界というものは「私たちが感じ取れる範囲内」の事であり、私が死ねば世界は終わる。

 

私の感じられない世界が、どうして私の世界の中に存在する事が出来るだろうか?

世界とはつまり私の事なのだ。

 

私が盲目になれば世界から光は失せるし、私の聴覚が機能しなくなれば無音の世界が広がる。

 

そして、そのような私の世界を1人1人が持っているのだ。

 

他者との理解がいかに難しいのかを考える時、世界と世界が衝突しているのだと思えばその理由が判然とする。

 

最近は両極端に振れる考えに振り回される事が多くなっているけれど、まずはこうした前提をしっかりと自分自身で押さえておきたい。

予定説

この世にはどうにもならない事がある。

 

私の世界観の中ではどうにもならない事”しか”ないのだ。

 

これはもちろん、暗い意味でもあるけれど明るい意味でもある。

 

どちらの意味にもなるので、明暗は特にないと思っている。

 

生まれる事が自分の意思ではない以上、その上に重なる全ての出来事はやはり運命と呼ぶしかなく、それは自分の意思ではないのだ。

 

どのような体を持つのか、どのような家庭で育つのか、そしてどのように生きていくのかすらも自分の意思とは全く関りがない要素によって決定される。

 

好物を自分で決められる人はいないし、誰に恋をするのかを決定できる人もいない。

 

告白されて自分から付き合おうと思ったのだから、それは自分の意思ではないのか? という話もあるかもしれない。

 

しかし、誰に告白をされるのかを決めていない上に、告白されて付き合おうかどうかを悩んだのであれば、やはりそれは相手の出方によって起きた出来事であり、自分で起こしたとは言い難い。

 

状況が、運命が自分に選択を迫ったのであり、自発的に選び取ろうとしていない以上そこに意志は介在しないのだ。

 

”自分で決めた”と思い込む事は出来るだろうけれど、そこには決定した意思らしきものはない。

 

もちろん、全ては運命の仕業だというのも思い込みなのだろうけれど。

 

どの角度から見るのかによって、物事が正反対に見えてしまうものなのだ。

 

そして、その角度は自分で決定できない。

 

生まれる、育つという過程の中で得た様々な感覚、経験が角度を作っていくのだから。

 

結局、私はニヒリズムの連環から抜け出すこと能わず、このまま生きていくのだろう。

 

私はそれに満足というわけではなく、そういうものなのだと受け入れる心積もりなのだ。

 

そうした運命なのであれば、それを受け入れようと思っている。

 

全ては予め決められており、何が出来るのか出来ないのかすらも決定されている。

 

もちろん、私の賢しらが及ばない広範囲に渡って決まっているので、何が出来るのか出来ないのかについては、私が決める事は出来ないし、知覚すら不可能だ。

 

それならば、やってみるだけやってみようと思う。

 

やってダメなら諦める、出来るのなら続ける。

 

つまり、ここでニヒリズムから脱する事が出来るのだが、やりたい事は何でもやってみようという話に繋がっていくのだ。

 

全ての物事は所与のものとして決定されているのだから、やりたくても出来ない事がある。

 

やりたくなくても出来る事がある。

 

やりたいか否かよりも、出来るかどうかにまずは重点を置いてみたい。

 

これが私を貫く考えであり、長年持ち続けて来た大切な信念なのだ。

 

その根底にあるのは無我であり、我だけではなく全てのものが虚構という発想だ。

 

無常なのであればこそ、全てのものはその瞬間だけに現われる蜃気楼のようなものでしかない。

今を生きるという事こそが人生なのであれば、その蜃気楼を愛する事が人生を愛するという意味になる。

 

次の瞬間に消えてしまうと分かっているからこそ、人は物語を作る、あれこれと理屈をこねて次の瞬間に失われるものを心に残そうとするのだ。

 

10年前からずっとあなたを知っているというフィクションは、それだけ愛着を持っていますという意思表示になる。

 

10年前のAさんと、今のAさんは全くの別人にもかかわらず、同じAさんを知っているという幻想を抱くのだ。

 

そう思わなければ、今のこの瞬間しかないのだと分かってしまえば、人生を生きるのはあまりにも辛過ぎる。

 

人は物語の中に生きているのだから、全員小説家みたいなものなのかもしれない。

 

それを文字起こし出来る人間が、小説家として生きていくのだろう。

 

結びが小説になってしまったのは、今日こそ書くぞと気合を入れていたのに一文字も書けなかった自分を慰めるためなのかもしれない。