私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

乱文

結局のところ、人生というのは寸断なく連続する瞬間の事なのだ。

 

明日の自分がどうなるのかという事と、今の自分がどうであるのかという点は、実は繋がっていないのかもしれない。

 

繋がっているように感じるのは、繋がっている点を無意識的に、そして恣意的に繋ぎ合わせて考えているからであって、繋がっていない部分が如何に多いのかという事について、あまり人は考えない。

 

もちろん、私もその事実を念頭に置く事が少ない。

 

一寸先は闇の中に生きるしかない中で、未来に対する希望という名の妄想や単なる憶測に縋るのは弱い証なのだろうか?

 

先の事が分からなければ恐ろしくて足が踏み出せない、何をしたら良いのか分からないというのは、それほど不自然な話ではない。

 

だから、私たちは恐ろしい世界の中にいて、その中で安穏としていられるのはきっと、暗闇の中で目を閉じて明るい世界を思い描くからだ。

 

暗い世界の中であっても、明るい世界であっても、目を閉じれば光は遮断されるのだから、暗闇だろうが何だろうが、あまり関係はないのかもしれない。

 

静まり返る宵闇の中で無数の人が目を閉じて蠢いている姿は、形容しようがないほど恐ろしい。

 

そんな中である人は悟ったと言い、暗闇の中でどのようにして生きたら良いのかを、目を閉じたまま説いている。

 

ある人は個人の妄想によって成り立っているのが世界なのだから、自分の意のままに人生を整形する事が出来ると言う。

 

今の私が誰かを批判できるような立場にはないし、それぞれの信じるところを大切にして欲しいとしか言えない。

 

しかし、私には私の前に広がる闇がある、虚空がある。

 

それは私にとって非常に大切なもので、その中には苦しみも悲しみも含まれていて、私の過去はその暗闇に映写されていく。

 

私はその時、映写機のような役割を果たしていて、私と通過する事によって内面が映し出されるのだ。

 

そうやって私は私の人生を物語として創造し、私が生きた人生ではなく、私が生きたと「思っている」人生を過去と呼ぶようになる。

 

人生は寸断なく連続する瞬間であり、明日と今日が繋がっているわけではない。

 

過去が私を作りあげたのではなく、過去だと「思っているもの」が私を作って来たのだ。

 

そして、いつも自問自答するのは「お前は一体誰なんだ?」という言葉なのだ。

 

どのような説明も及ばない、どのような言葉も残響すら聞こえてこない、奥底にある何かに私の意識が向いていく。

 

私はなるべくしてこのような人物になって来たのだろう。

 

おそらく、悟りや可能性を説く人たちも、なるべくして。

 

最近、私は静かにしかし確実に混乱している。

 

そんな時には答えを知っている風な言葉が、非常に耳障りなのだ。

 

いつもならこんな支離滅裂な文章を人目に晒そうとは思えないけれど、こうでもしない限り全く自己の内面が整理されていかない。

 

「生きる事はまことに苦しく辛い。世を呪い人を呪い、それでも生きたい」ともののけ姫に出てくる村の長が言っていたのを、いつも思い出してしまう。

 

前段に関しては全く賛成なのだが、それでも生きたい、と私は胸を張って言えるのだろうか?

 

別にそう言わなければいけないわけではない。

 

しかし、そうでなければ私はなぜ今生きているのだろう?

 

私は生きたいと思っている自分を否定しながら、生きているとしか思えない。

 

それを隠すための厭世的な態度なのだろうか?

 

言葉ではなく行動こそが本心を映し出す。

 

それならば私は生きたいと思っているのだ、村の長と同じように。

 

また混乱が酷くなってきたので、少し散歩でもして来よう。

カウンセリングを受けている

私のような育ち方をしてしまったのなら、正義感や誠実さ、真善美を求めるような性質など欲しくはなかった。

 

人を傷つける事にそれほどの罪悪感がなく、誰を利用しても涼しい顔をしていられる人間ならば、きっとこんなことにはなっていないだろう。

 

私は汚濁の中で育ち、無駄に高い道徳心によって引き裂かれるような痛みと共に生きるしかない。

 

詳細は後日書くけれど、私は今かなり弱っているのだと思う。

 

日常生活に支障が出るほど過去に振り回されているわけではないつもりが、少し真面目に過去と向き合うと精神が磨耗し、熱を出したり体が動かなくなる。

 

闘病が終わってすらも、過去は私を手放してはくれない。

 

生まれてからこの方、このような苦労や心痛から逃れられた事がない。

 

きっと私は疲れている、疲れ果てているのだ。

 

昔に戻ったかのように、私の精神が悲鳴をあげている。

 

ともすると、これは過去の断末魔かもしれない。

 

最後の抵抗をしているら可能性もある。

 

人生で初めてまともにカウンセリングを受けているのだから、こうした反応が出るのは当然なのだろう。

 

それほど私の精神は磨耗し、憔悴していたらしい。

 

私は家族を恨む。

 

私は望んで生まれたわけではなく、ただの不運によってあの親の下で、あの兄弟と共に育ったのだ。

 

いつになったら終わるのか分からない苦痛は、しばらくの休眠から覚めたらしい。

 

これが最後の抵抗になることを祈るばかりだ。

 

何度もあるのなら、私の精神が耐えきれない。

 

私は過去から自分を救ってみせるつもりだ。

 

その経験が同じような道を歩む仲間にとって、必ず役立つものになるだろうから。

 

今はただじっと、過去と向き合う時間を持とう。

 

そうするしかない。

性に関する話

普段はあまり書かないけれど、今日は性に関する話をしてみたい。

 

本来は薬膳の勉強を続けなければならないのだけれど、どうしても書きたい事があるとキーボードに触れてしまうらしい。

 

さて、性に関する話。

 

と言っても、世間でされているような下世話な雰囲気の話はできないし、そんな経験はない。

 

私は以前からセックスが相当危険なものなのだろう、という感覚を持っている。

 

心が不安定になれば肉体関係から異様に距離を取るか、異様に近付くかどちらかしかないのだ。

 

異様に距離を取る場合には人との触れ合いそれ自体を拒絶する展開すら待っている。

 

たとえば、同性から抱きしめられたり、手を握られる事にすら抵抗感を覚えてしまう人もいる。

 

若干、脱線するけれど急遽今月からスーパーカウンセラーと慕っている人が、弟子を取ってくれるのだとか。

 

今月から私も弟子入りする事になったのだけれど、その人曰く親からの愛情が不足している場合には、人との接触を避ける傾向が強くなるのだそうだ。

 

肉体関係以上に密接な接触はないのだから、それを避けてしまうのは当然なのかもしれない。

 

若しくは性依存になってしまうような人の場合には、自傷行為の一環として求めている場合が多いように感じる。

 

ある人は男を操作している優越感を得るために、ある人はそうしている間だけは解離せずに済むという安息のために、ある人は自分をどこまでも貶めるために、肉体関係を求めてしまう。

 

もちろん、男性の場合もあるのだろうけれど、その場合には問題視などされず、ただの遊び人と名付けられるだけだ。

 

私は遊び人ではなかったけれど、同じような育ち方をした異性とただ堕落していくためだけに、そうした関係に陥った事がある。

 

一応、付き合っているという体だったので、遊び人ではなく普通の彼氏のように見えていたのかもしれない。

 

同じような傷を持つ人間同士は、きっと距離が必要になるのだろう。

 

おそらく、家庭で深い傷を負った人たちは、何かの濃度が高いのだ。

 

所謂普通の人たちならば気にならない程度の濃さなのに、傷を持っている人間同士が惹かれ合うと、その堕落の速度や深度が急激に増していく。

 

肉体関係は生の象徴であり、常に死が内在している人間同士の場合には行為が逸脱してしまう危険性を孕んでいるし、そうしたいという欲求をおそらくお互いが持っている。

 

自分をとことん破滅へと追いやりたいという衝動が、異様な行動に通じていくのだろう。

 

幸い、私はその泥沼に足を絡めとられる事はなかったけれど、私の周りにはそうした男女がいた。

 

芸術方面の人たちであれば、そうした逸脱も芸術へと昇華させる事が出来るのだろう。

 

しかし、普通の人たちにはそれが出来ないからこそ、泥沼にはまってしまう。

 

異性の体を通じてしか得られないもののために、自らの精神を切り売りしていくのだ。

 

だから、肉体関係は危険なのだ。

 

知らない間に自己の抱える不安に飲み込まれ、翻弄され、気が付けば廃人のようになっている危険性がある。

 

生まれ流れにして備わっている性質や、避ける事が出来なかった不幸によって目を出した性癖などに罪はあるのだろうか?

 

それが気になって仕方ないのだ。

 

結論から言えば、私はそれが罪だと思っていない。

 

しかし、どうしてなのか道徳心の強い人にそうした性質が宿ったり、目を出していたりもする。

 

本来であれば哲学的な思索に耽り、人生や死、世界や心の事を考えていたいのにもかかわらず、気が付けば性的な事ばかり考えてしまうのだ、という話を耳にした事がある。

 

さらにその想像は一般的なものではなく、一見すると色情魔のようにしか見えないものだ。

 

そんな自分が許せず、死にたいという話だった。

 

おそらく、誰であってもあらゆる性癖の萌芽を持っているのだ。

 

性癖だけに限らず、あらゆる可能性を持って人は生まれて来る。

 

偶然と呼ぶしかない出来事や、きっかけによって萌芽が成長してしまう事もあるのだと思う。

 

それが罪だとするならば、それは道徳如きの罪であり、人の罪ではない。

 

道徳心は社会を安定させるために必要であり、倫理観は内なる自己を正しく制御するために必要なものだ。

 

そして、道徳心も倫理観も人間が定めたものである以上、必ず不完全に終わる。

 

自然は人間如きの賢しらを認めない。

 

道徳的に見て罪だとされようが、自然は一顧だにしないのだ。

 

生まれた性質が求める力の前に、人間の道徳心などは雲散霧消するしかない。

 

とりわけ、性欲、食欲に関わる力の強さは群を抜いている。

 

精神的に弱っている状態で肉体関係を持つのは、あまりにも危険なのだ。

 

自分と相手を破壊する力が、そこに生まれる危険性が高いから。

 

それと同時に人は生きたいという欲求と、死にたいという欲求の相克の中でしか生きる術を与えられていない。

 

ともすると、破滅的な肉体関係を持ったというのは、人としてのあるべき姿だったのかもしれない。

 

大勢が向いている生の方向ではなく、死へと突き進むという違いはあるけれど、どちらも人として当然持っているものなのだから。

 

ちなみに、私の周りには変わっていると言われる人たちが大勢いるので、性癖に関しても相当寛容になってしまった。

 

性癖に限定をするから下賤な話に転がるのであって、そういう人たちは大概他にもおかしいと思われるような面を持っている。

 

全体的に見れば性癖が変わっているのではなく、その人はこれで全体が調和しているのだと分かって来る。

 

おかしいところがなければ、辛過ぎて耐えられなかった経験などを持っているのだから、逸脱はむしろ当然なのだ。

 

性の話に限らず、自分がいわゆる普通の人や、社会通念から外れている事を責める必要などどこにもない。

 

人は常に自然に導かれて、たとえ自分の思った通りではなくても、必ず変化や成長を遂げるものなのだ。

 

社会通念や道徳観念などの人工物に遮られて、自分自身の心が曇ってしまうくらいであれば、そんなものは唾棄してしまえば良い。

 

部分的には逸脱していたとしても、全体がそれで調和するのなら必要なものだと言って良いはずなのだから。

 

その逸脱が性に関する部分でも良いだろうし、仕事に関する部分でも構わない。

 

自分と世界を調和させるために必要なものは、自分以外には決して知り得ない。

 

周りの人と同じように、という事が叶わなくても、それはそれで問題など全くないのだ。

 

自分らしさというものが私には分からないけれど、少なくとも逸脱に罪はない事だけは分かる。

 

何が言いたいのか分からない記事になってしまったけれど、これからギャング・オブ・ニューヨークを見てデカプリオに惚れ直すつもりなので、今日はここまでにしたい。

ソクラテスの弁明

今日は仕事がないのでしっかりと受験勉強をしようと思っていたのに、低気圧のせいですべての計画が狂ってしまった。

 

低気圧がやって来ると頭痛が酷くなり、どうしても勉強に集中出来ない。

 

集中していくと時間を忘れられるのだけれど、こういう日は5分経つのが苦痛で仕方ない。

 

困ったものである。

 

しかし、嘆いていても何も始まらないので、指の体操を兼ねてブログを更新する事にした。

 

私が哲学に没頭するようになったのは、今から六年ほど前の事だ。

 

大学生の頃には哲学というよりも心理学ばかりやっていて、哲学にのめり込んでいたとは言えない。

 

私が初めて読んだ哲学に関する本は「ソクラテスの弁明」という薄い、定価でも200円程度の薄いものだった。

 

内容は古代ギリシャソクラテスが青年を惑わした罪人として法廷に立ち、そこで完璧な論理を使い自らを弁護したにもかかわらず、死刑判決を下された時の様子を記したもの。

 

あの本の中で主張されていた非常に重要で、非常に素朴なソクラテスの意見とは、Aについて知っている人の方が、Aについて知らない100人よりもAについて正しい意見を持ち、行動が取れるという事だった。

 

Aにはたとえば青年が当てはまるだろうし、薬学、血を抜いてくれる整体、伝統芸能、ピアノ、執筆を入れてみても良いだろう。

 

私は薬学部に通っている友人よりも伝統芸能に詳しいけれど、薬学については明らかに彼女の方が詳しい。

 

だから、伝統芸能ならば私の方が正しい知識を持ち、行動が取れると考えて間違いないし、薬学ならば彼女の方が正しいのだ。

 

ソクラテスは素朴だけれど、とても大切なこのことを主張して陶片裁判によって死刑を下された。

 

悪法も法なりとして、ソクラテスは逃げ出せた状況にもかかわらず、毒を煽り生涯を終えたのだ。

 

ソクラテスにとって肉体とは魂の牢獄であり、彼は死を待ち侘びていたらしい。

 

魂は純粋に善なるものを志向しているのにもかかわらず、肉体には食欲、性欲、名誉欲などの欲望がすぐ宿り、それに翻弄されてしまう。

 

善へと向かう魂は、欲へと向かう肉体という牢獄に閉じ込められているのだから、そこから解放されるのは喜びなのだと本気で信じていたそうだ。

 

これはソクラテス独自の発想ではなく、ピタゴラスの定理で有名なピタゴラスが、自ら創設した教団の中で主張していたものを踏襲したものらしい。

 

私はソクラテスの弁明を読んだその時から、哲学の虜になってしまったのだ。

 

何という雄々しき生き様だろう、と感動したし、善なるものを求め続ける気高さのようなものを、あの本から感じ取っていた。

 

当時、どれほど大人数から否定されようとも、2500年以上も世界中の人から敬愛されるほど、十分な魅力を持っていた人物こそ、ソクラテスだったのだ。

 

生死、善悪、美醜、真偽という全ての物事の基盤となっているものが何かを突き止めようとする試みこそ、哲学の醍醐味であり、さらにそこに納得出来る答えなどないという事実も既に分かっている。

 

それでも私は生死について考えてしまうし、それを止めようとも思えない。

 

気になって仕方がないのだ。

 

私はなぜ生まれ、なぜいつかは死ぬと分かっているくせに生きようと思っているのか、その理由が気になって仕方がない。

 

私は人生そのものが仄暗く、陰気なものだと考えている。

 

以前ならすぐにでも死んでやりたいと思っていたけれど、今はそう思わない。

 

しかし、私の目に見えるものは相も変わらず霞が掛かっている、判然としない。

 

その割に諦めきっているというわけでもなく、好機とみれば行動を起こしている時もある。

 

私は人生の中にある濁流に飲まれ、それに翻弄されているのかもしれない。

 

時に流れをうまく掴んで、上手に泳いでいるように見える時もある。

 

しかし、それは結局のところ吉野弘が言ったように、落下しているのに飛翔していると信じている状態に過ぎない。

 

人はこれでもかと堕落を続ける人生を歩むしか、生きる道を用意されていないのだ。

 

そんな人生に何の意味があると厭世的になるのだけれど、それならばなぜ私は努力を続けているのだろうか?

 

勉強も運動も稽古も、おそらく人並み以上にやっている。

 

人生が汚濁に塗れ、手に入れたものを全て失う結果になると分かっているのに、なぜこうした努力をしているのだろうか。

 

最後に大好きな詩を載せておこうと思う。

 

ドラッガーが晩年にしたためたものらしい。

 

もう一度人生をやり直せるなら・・・・

 

今度はもっと間違いをおかそう。

 

もっとくつろぎ、もっと肩の力を抜こう。

 

絶対にこんなに完璧な人間ではなく、もっと、もっと、愚かな人間になろう。

 

この世には、実際、それほど真剣に思い煩うことなど殆ど無いのだ。

 

もっと馬鹿になろう、もっと騒ごう、もっと不衛生に生きよう。

 

もっとたくさんのチャンスをつかみ、行ったことのない場所にももっともっとたくさん行こう。

 

もっとたくさんアイスクリームを食べ、お酒を飲み、豆はそんなに食べないでおこう

もっと本当の厄介ごとを抱え込み、頭の中だけで想像する厄介ごとは出来る限り減らそう。

 

もう一度最初から人生をやり直せるなら、春はもっと早くから裸足になり、秋はもっと遅くまで裸足でいよう。

 

もっとたくさん冒険をし、もっとたくさんのメリーゴーランドに乗り、もっとたくさんの夕日を見て、もっとたくさんの子供たちと真剣に遊ぼう。

 

もう一度人生をやり直せるなら・・・・

 

だが、見ての通り、私はもうやり直しがきかない。

 

私たちは人生をあまりに厳格に考えすぎていないか?

 

自分に規制をひき、他人の目を気にして、起こりもしない未来を思い煩ってはクヨクヨ悩んだり、構えたり、落ち込んだり ・・・・

 

もっとリラックスしよう、もっとシンプルに生きよう、たまには馬鹿になったり、無鉄砲な事をして、人生に潤いや活気、情熱や楽しさを取り戻そう。

 

人生は完璧にはいかない、だからこそ、生きがいがある。

七情

かなり前からアリストテレスのニコマコス心理学や、孔子の中庸の話に惹かれている。

 

こじつけかもしれないけれど、私が今東洋医学や東洋の占いについて勉強をしているのは、この影響だと言っても良い面がある。

 

要はバランスを取れと言っているのだ。

 

たとえば、平穏な時には乱暴者として扱われている人であっても、戦時には勇敢な兵士として扱われる。

 

たとえば、平穏な時には優しい人が、戦時には臆病者だと罵られる。

 

どんな時でも優しければ良いわけではないのだ。

 

どんな時でも勇敢であれば良いわけではないのだ。

 

私たちの眼前に広がる世界は、1秒として同じ相貌をしていない。

 

細かく言えば私たちの体を作っている細胞は、毎秒細胞分裂のどこかの段階にある。

 

この細胞分裂の流れが止まらないという事は、つまり私たちの体は生まれてから死ぬまで変化し続けるという意味なのだ。

 

私たちの体ですら、諸行無常の流れに絡めとられている。

 

体に英気が充満しているのであれば何かしらの行動を取るのが良いのだろう。

 

憔悴しているのであれば休むのが先決になる。

 

人生というのは結局のところ、バランスをいかに取るのかという点に掛かっているのではないか、と私は思っている。

 

絶対的な善がない以上は、その都度その都度これが次善なのではないかと見当を付けながら、私はこれからも何か行動を起こし、失敗してそこから学んでいくのだろう。

 

とことん疑った方が良い状況、相手もいるだろうし、騙されても構わないと全く疑わずに接した方が良い人や、状況もあるのだ。

 

相手によって態度を変えるという意味になるけれど、これは決して長いものに巻かれろという意味ではない。

 

人生は1秒として同じ状況を用意してはくれず、経験は未来に対して答えではなく、参考にしかならない。

 

人は誰しもが正解かどうか分からない道を歩かざるを得ず、失敗を山のように重ねて死へ向かっていくのだ。

 

その有様は当事者からすればたまったものではないけれど、傍観者として見れば悲ししくもあり、楽しくもあるだろう。

 

人生とはまさに悲喜劇なのだ。

 

少し話がずれるけれど、私は東洋哲学でいうところの金の属性であり、対応している感情は悲、憂である。

 

私に最も近い感情は悲しみであり、憂鬱なのだ。

 

その理由は真実を見る傾向にあるからだとされている。

 

真実は誰にとっても苦しく、辛いものであり、希望など稀にしかない。

 

それを見てしまいやすい性質にあるからこそ、私は悲しむ事が多いし憂鬱になってしまう。

 

ちなみに東洋哲学では七情と言って、怒る、喜ぶ、驚く、思う、憂う、悲しむ、怖がるという感情がそれぞれの性質に対応している。

 

五行学説で生まれた日から計算出来るものだから、興味がある人はネットで調べてみると良いかもしれない。

 

木が怒り、火が喜び、驚き、土が思う、憂う、金が悲しむ、憂う、水が恐怖、驚きの感情を持っている。

 

相当話が脱線したけれど、私はよく何かしらについて憂いている。

 

人生を明るく、楽しく生きようとする人たちが多い中で、私は常に日陰を探しているのだ。

 

私は私の日常を壊すものを、どこまでも避ける傾向にあるらしい。

 

日常を壊すものというのは、心を乱すものと言い換えても良い。

 

制御できないほどの喜びを与えるものも、苦しみを与えるものも、私は全て嫌っているのだ。

 

過剰な喜びは急激な喪失感を与えるし、激しい苦しみはまた戻って来てしまったのかと精神の四肢を脱力させる。

 

楽しい事も苦しい事も、穏やかなものであればそれで良い。

 

私はもう良い思いをしなくても良いから、懊悩の世界に戻るのだけは避けたい。

 

人生は苦しみの連続であり、それに耐える道しか私には見付からない。

 

もういい年をした大人になったのだから、うまく隠せるようになったけれど、私の中身など自殺未遂を繰り返していた当時から、何も変わってなどいない。

 

苦しくて仕方がないわけではないけれど、人生に喜びを見出そうなどとは思えないのだ。

 

激しく脱線した記事になってしまったけれど、これ以上支離滅裂にならないようにここでやめておこう。

デイジーは有能

以前から思っていたことだけれど、人の人生には自由なるものがあるのだろうか?

 

私が今言っているのはいわゆる「自由」の事であり、たとえば望むような人生を歩む事が出来るという類のものだ。

 

私はこれが嘘だと思っているのだ。

 

どう考えても望んだように生きる事は不可能であり、それを認めるのは充実した人生を歩むために、大変重要だと考えている。

 

言葉にすると陳腐だし、現代を生きる人間がそんな前近代的な発想でどうするのか、と呆れられてしまうかもしれない。

 

たとえば、生まれ持っているものは選べない。

 

顔も性格も身長も運動神経も視力も聴力も、何もかもが既に与えられている状態で生まれて来るのだ。

 

世界とはつまり自己の感覚を通じて感知する範囲に収まるものなのだから、感覚とは世界そのものだと言って良い。

 

つまり、私たちは世界観を既に与えられて生まれている。

 

そして、その世界観から抜け出る事がないまま、瞑目する時を迎えるしかないのだ。

 

既に与えられている世界観の中でだけ生きている様のどこに、自由なるものがあるというのか。

 

既に制限されているのに。

 

それが悪いとは思っていないし、むしろそれで良いと思う。

 

いくら自由だと盲信する人であっても、空を歩く事は出来ないし、深海で生活を送る事も出来ない。

 

私たちは「出来る範囲内」「選択肢が許す範囲内」で生きているだけであり、それは自由とは言わない。

 

さらにその選択肢を選ぶ時の動機は無条件ではなく、選択肢にすら条件が課されている。

 

たとえば、どれほどお腹が空いていても定食を5つ平らげる事は難しい。

 

自分自身がどれほどの食事を取れるのかという条件によって、頼める量が決まって来る

 

また食事に払える金額という制限もある。

 

本当は2つの定食を頼みたいけれど、お金がないから1つにしよう、という感じに。

 

これを細分化して考えていくと、空腹を満たしたいならそれほど食べたくはないけれど、量が多いものという選択肢になるし、アレルギーのものが入っていればどれほど食べたくても頼めない、という事も分かって来る。

 

最終的に私たちは条件によって「選ばされている」のであり、自由に「選んでいる」のではないと気付くのだ。

 

人生はまさにこうしたものの連続であり、全く自由などというものからは程遠い。

 

繰り返しになるけれど、私はそれで良いと思っている。

 

自由という言葉は往々にして欲望の隠れ蓑になっているのだ。

 

あれが欲しい、これが欲しい、こうしたい、ああしたい。

 

そうした欲望を制限する情動を、自由という耳触りだけが良い言葉が駆逐していくのだ。

 

人は自由なのだ、望む事は善なのだと思い込むと、いつの間にか欲望は叶えられるべきもの、叶える事が幸福な事だと感じるようになる。

 

手に入らないものでも簡単に望むようになり、手に入らないものが手に入らない事によって深い絶望感を覚えてしまう。

 

身の丈を知る、分相応というのは嫌な響きかもしれない。

 

しかし、それは自己防衛として役立つ感覚であり、自分自身が地に足を付けて過ごすために重要な心構えなのである。

 

私には何が出来て、何が出来ないのか。

 

それを知る事がとても重要なのだ。

 

夢は大きく、と言うけれど、そんな必要はない。

 

出来る事が大規模になってくれば、自然に夢が大きくなっていく。

 

その大きな夢を咀嚼し、消化出来る器があってこそなのだ。

 

いくら栄養満点だからと言って、赤ん坊に蜂蜜をやるとどうなるのか。

 

栄養価がそれほど高くなくても、赤ん坊にとって十分なだけの栄養があればそれで良い。

 

自由の概念は過剰な栄養、つまり毒となって働くのだという事を忘れないようにしたい。

 

さて、私はダウントンアビーの続きを見なければいけない。

 

なぜなら、我が愛するデイジーがパットモアさんと喧嘩をしているから。

 

デイジーは有能だから、そろそろキッチンメイドを卒業したいんだってさ。

マシューは事故って死んだらしい

無事に原稿の納品が終わったので、今日はいつもなら書かないような話をしてみたいと思う。

 

お金にまつわる話、経済とは何かについて思っているところをまとめてみたい。

 

経済学と言えばいくつもの数理モデルを駆使して、演繹的に答えを導き出されるいわば自然科学のようなものだと思われる事が多い。

 

しかし、実際には社会科学であり、計算で答えを導き出す事が出来ない分野なのだ。

 

さらに厄介な事に現実にはいつでも不確実性というものが付きまとう。

 

たとえば、関東大震災が明日来るかもしれないし、このまま50年来ないかもしれない。

 

未来は決して予測できるものではないのだから、計算の土台となっている前提がないという話になるのだ。

 

つまり、金の動きも予想は出来ないという事になる。

 

では、なぜ様々なモデルが生み出されるのかと言えば、そうしたモデルがあると仮定した方が儲けられる人たちがいて、そのプロパガンダのようなものとして使われる事が非常に多い。

 

計算によって導き出せる答えがある分野に、扇情的な情報など必要なはずがない。

 

この事からも経済学は自然科学ではなく、社会科学であるという意味がよく見て取れる。

 

さて、経済学が計算によって成長するものではなく、人の情緒によって予測不可能な動きを見せるという事が分かったところで、本題に入って行きたい。

 

経済とは元々経世済民という四字熟語を短縮したものである。

 

世を治め、民を救うという意味の言葉で、熊沢蕃山という江戸時代の人物が唱えた言葉。

 

その言葉の本義を考えるのであれば、経済学は世に人に資するものでなければいけないのだ。

 

経済の状態を景気と呼ぶけれど、この気はまさに気分、気持ちの気である。

 

人の気持ちによって経済は動いていくというのは良い表現だ。

 

たとえば、一万円というのは紙の別名なのだけれど、なぜ紙に一万円分の価値があるのだろうか?

 

その価値があると人々が信じている間は、一万円札にはその価値が与えられる。

 

その価値がないと思われた瞬間に、同じ紙で交換出来るサービスやものの量が減り、質が劣っていく。

 

金の価値が減り過ぎればインフレに、減り過ぎればデフレになる、どちらも不景気。

 

一万円の紙の質が変わったわけではなく、人の価値観が変化しただけで景気が良くも悪くもなる。

 

堅苦しく言えば経済とは思想の事なのだ。

 

どのような世界観を持っているのかという点と、望ましいと考える世の中の形は必ず似通ってくる。

 

たとえば、自由を追い求めれば政府のように強力な力を持つ機構は、邪魔立てするものになる可能性が高くなる。

 

よって、政府は必要最低限の事をやれ、民間に口を出すな、貧乏人は自己責任、金持ちになりたいのなら結果を出せ、努力が報われると思うな、自己責任なのだから、という風潮になる。

 

今の世の中はこの状態である。

 

勝てば官軍負ければ賊軍という考えが、あまねく浸透しているのが現在の日本であり、世界の趨勢なのだ。

 

そこに人としての誇りや矜持は塵ほどもなく、稼ぐ金=人の価値に成り下がっているのだ。

 

繰り返すが、経済は思想である。

 

思想である以上は概念であり、絶対的な答えではないのだ。

 

恐ろしい事に勝てば官軍という流れが世界の趨勢になり、それに対する強い反発としてトランプのような人物が台頭してきた面がある。

 

世界平和も人類平等も素晴らしい考えだけれど、まずは自国の平和、身の周りの公平の方が遥かに大切なのだ。

 

それがおそらく人として当然であり、冷たいのではなくそのようにしかならない。

 

喉が渇ききっている時、自分の募金で飢えを満たした子供がいるという事実よりも、コップ1杯の水を求めるのが自然なのだ。

 

そこに善悪はない。

 

経済の話から相当外れてしまうけれど、明治以降この方、日本は進む道を大きく誤ったのだ。

 

勝てば官軍と言うのは日本人的な思想、精神性から程遠い感覚ではないか。

 

国破れて山河在りという感覚、誇りさえ守れば負けたとしても後に続く人が現れる、自己の生の儚さなどを魂に刻み込んだ日本人が、勝てば官軍などと口にするようになれば、もう世も末である。

 

日本人の精神性をなくしてしまえば、日本列島に住む単なる人なのだ。

 

経世済民を唱えた熊沢蕃山が、今の日本を見たらどれほど嘆く事だろう。

 

結果ではなく過程を重視するのであれば、勝てば官軍などと口にする事の愚かしさを実感出来るはずなのだ。

 

もちろん、勝負事に関してはそこまでシビアな感覚が必要だと分かっているけれど、何をしてでも勝とうと思えば、この世は地獄になる。

 

いや、この世が既に内包している地獄的な面が強調される。

 

結局、この世は地獄であるという事実を隠し、見ない振りをする事によって成り立っている。

 

経済の話から非常に離れてしまったけれど、今日はここらへんでおしまいにしたい。

 

なぜなら、ダウントンアビーの続きを見たいのだ。

 

戦争で生き残ったマシューに子供が生まれ、その喜びで有頂天になり脇見運転をしていたら事故って死んでしまったらしいんだよ、嫁もびっくりの展開だわ。