私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

七情

かなり前からアリストテレスのニコマコス心理学や、孔子の中庸の話に惹かれている。

 

こじつけかもしれないけれど、私が今東洋医学や東洋の占いについて勉強をしているのは、この影響だと言っても良い面がある。

 

要はバランスを取れと言っているのだ。

 

たとえば、平穏な時には乱暴者として扱われている人であっても、戦時には勇敢な兵士として扱われる。

 

たとえば、平穏な時には優しい人が、戦時には臆病者だと罵られる。

 

どんな時でも優しければ良いわけではないのだ。

 

どんな時でも勇敢であれば良いわけではないのだ。

 

私たちの眼前に広がる世界は、1秒として同じ相貌をしていない。

 

細かく言えば私たちの体を作っている細胞は、毎秒細胞分裂のどこかの段階にある。

 

この細胞分裂の流れが止まらないという事は、つまり私たちの体は生まれてから死ぬまで変化し続けるという意味なのだ。

 

私たちの体ですら、諸行無常の流れに絡めとられている。

 

体に英気が充満しているのであれば何かしらの行動を取るのが良いのだろう。

 

憔悴しているのであれば休むのが先決になる。

 

人生というのは結局のところ、バランスをいかに取るのかという点に掛かっているのではないか、と私は思っている。

 

絶対的な善がない以上は、その都度その都度これが次善なのではないかと見当を付けながら、私はこれからも何か行動を起こし、失敗してそこから学んでいくのだろう。

 

とことん疑った方が良い状況、相手もいるだろうし、騙されても構わないと全く疑わずに接した方が良い人や、状況もあるのだ。

 

相手によって態度を変えるという意味になるけれど、これは決して長いものに巻かれろという意味ではない。

 

人生は1秒として同じ状況を用意してはくれず、経験は未来に対して答えではなく、参考にしかならない。

 

人は誰しもが正解かどうか分からない道を歩かざるを得ず、失敗を山のように重ねて死へ向かっていくのだ。

 

その有様は当事者からすればたまったものではないけれど、傍観者として見れば悲ししくもあり、楽しくもあるだろう。

 

人生とはまさに悲喜劇なのだ。

 

少し話がずれるけれど、私は東洋哲学でいうところの金の属性であり、対応している感情は悲、憂である。

 

私に最も近い感情は悲しみであり、憂鬱なのだ。

 

その理由は真実を見る傾向にあるからだとされている。

 

真実は誰にとっても苦しく、辛いものであり、希望など稀にしかない。

 

それを見てしまいやすい性質にあるからこそ、私は悲しむ事が多いし憂鬱になってしまう。

 

ちなみに東洋哲学では七情と言って、怒る、喜ぶ、驚く、思う、憂う、悲しむ、怖がるという感情がそれぞれの性質に対応している。

 

五行学説で生まれた日から計算出来るものだから、興味がある人はネットで調べてみると良いかもしれない。

 

木が怒り、火が喜び、驚き、土が思う、憂う、金が悲しむ、憂う、水が恐怖、驚きの感情を持っている。

 

相当話が脱線したけれど、私はよく何かしらについて憂いている。

 

人生を明るく、楽しく生きようとする人たちが多い中で、私は常に日陰を探しているのだ。

 

私は私の日常を壊すものを、どこまでも避ける傾向にあるらしい。

 

日常を壊すものというのは、心を乱すものと言い換えても良い。

 

制御できないほどの喜びを与えるものも、苦しみを与えるものも、私は全て嫌っているのだ。

 

過剰な喜びは急激な喪失感を与えるし、激しい苦しみはまた戻って来てしまったのかと精神の四肢を脱力させる。

 

楽しい事も苦しい事も、穏やかなものであればそれで良い。

 

私はもう良い思いをしなくても良いから、懊悩の世界に戻るのだけは避けたい。

 

人生は苦しみの連続であり、それに耐える道しか私には見付からない。

 

もういい年をした大人になったのだから、うまく隠せるようになったけれど、私の中身など自殺未遂を繰り返していた当時から、何も変わってなどいない。

 

苦しくて仕方がないわけではないけれど、人生に喜びを見出そうなどとは思えないのだ。

 

激しく脱線した記事になってしまったけれど、これ以上支離滅裂にならないようにここでやめておこう。

デイジーは有能

以前から思っていたことだけれど、人の人生には自由なるものがあるのだろうか?

 

私が今言っているのはいわゆる「自由」の事であり、たとえば望むような人生を歩む事が出来るという類のものだ。

 

私はこれが嘘だと思っているのだ。

 

どう考えても望んだように生きる事は不可能であり、それを認めるのは充実した人生を歩むために、大変重要だと考えている。

 

言葉にすると陳腐だし、現代を生きる人間がそんな前近代的な発想でどうするのか、と呆れられてしまうかもしれない。

 

たとえば、生まれ持っているものは選べない。

 

顔も性格も身長も運動神経も視力も聴力も、何もかもが既に与えられている状態で生まれて来るのだ。

 

世界とはつまり自己の感覚を通じて感知する範囲に収まるものなのだから、感覚とは世界そのものだと言って良い。

 

つまり、私たちは世界観を既に与えられて生まれている。

 

そして、その世界観から抜け出る事がないまま、瞑目する時を迎えるしかないのだ。

 

既に与えられている世界観の中でだけ生きている様のどこに、自由なるものがあるというのか。

 

既に制限されているのに。

 

それが悪いとは思っていないし、むしろそれで良いと思う。

 

いくら自由だと盲信する人であっても、空を歩く事は出来ないし、深海で生活を送る事も出来ない。

 

私たちは「出来る範囲内」「選択肢が許す範囲内」で生きているだけであり、それは自由とは言わない。

 

さらにその選択肢を選ぶ時の動機は無条件ではなく、選択肢にすら条件が課されている。

 

たとえば、どれほどお腹が空いていても定食を5つ平らげる事は難しい。

 

自分自身がどれほどの食事を取れるのかという条件によって、頼める量が決まって来る

 

また食事に払える金額という制限もある。

 

本当は2つの定食を頼みたいけれど、お金がないから1つにしよう、という感じに。

 

これを細分化して考えていくと、空腹を満たしたいならそれほど食べたくはないけれど、量が多いものという選択肢になるし、アレルギーのものが入っていればどれほど食べたくても頼めない、という事も分かって来る。

 

最終的に私たちは条件によって「選ばされている」のであり、自由に「選んでいる」のではないと気付くのだ。

 

人生はまさにこうしたものの連続であり、全く自由などというものからは程遠い。

 

繰り返しになるけれど、私はそれで良いと思っている。

 

自由という言葉は往々にして欲望の隠れ蓑になっているのだ。

 

あれが欲しい、これが欲しい、こうしたい、ああしたい。

 

そうした欲望を制限する情動を、自由という耳触りだけが良い言葉が駆逐していくのだ。

 

人は自由なのだ、望む事は善なのだと思い込むと、いつの間にか欲望は叶えられるべきもの、叶える事が幸福な事だと感じるようになる。

 

手に入らないものでも簡単に望むようになり、手に入らないものが手に入らない事によって深い絶望感を覚えてしまう。

 

身の丈を知る、分相応というのは嫌な響きかもしれない。

 

しかし、それは自己防衛として役立つ感覚であり、自分自身が地に足を付けて過ごすために重要な心構えなのである。

 

私には何が出来て、何が出来ないのか。

 

それを知る事がとても重要なのだ。

 

夢は大きく、と言うけれど、そんな必要はない。

 

出来る事が大規模になってくれば、自然に夢が大きくなっていく。

 

その大きな夢を咀嚼し、消化出来る器があってこそなのだ。

 

いくら栄養満点だからと言って、赤ん坊に蜂蜜をやるとどうなるのか。

 

栄養価がそれほど高くなくても、赤ん坊にとって十分なだけの栄養があればそれで良い。

 

自由の概念は過剰な栄養、つまり毒となって働くのだという事を忘れないようにしたい。

 

さて、私はダウントンアビーの続きを見なければいけない。

 

なぜなら、我が愛するデイジーがパットモアさんと喧嘩をしているから。

 

デイジーは有能だから、そろそろキッチンメイドを卒業したいんだってさ。

マシューは事故って死んだらしい

無事に原稿の納品が終わったので、今日はいつもなら書かないような話をしてみたいと思う。

 

お金にまつわる話、経済とは何かについて思っているところをまとめてみたい。

 

経済学と言えばいくつもの数理モデルを駆使して、演繹的に答えを導き出されるいわば自然科学のようなものだと思われる事が多い。

 

しかし、実際には社会科学であり、計算で答えを導き出す事が出来ない分野なのだ。

 

さらに厄介な事に現実にはいつでも不確実性というものが付きまとう。

 

たとえば、関東大震災が明日来るかもしれないし、このまま50年来ないかもしれない。

 

未来は決して予測できるものではないのだから、計算の土台となっている前提がないという話になるのだ。

 

つまり、金の動きも予想は出来ないという事になる。

 

では、なぜ様々なモデルが生み出されるのかと言えば、そうしたモデルがあると仮定した方が儲けられる人たちがいて、そのプロパガンダのようなものとして使われる事が非常に多い。

 

計算によって導き出せる答えがある分野に、扇情的な情報など必要なはずがない。

 

この事からも経済学は自然科学ではなく、社会科学であるという意味がよく見て取れる。

 

さて、経済学が計算によって成長するものではなく、人の情緒によって予測不可能な動きを見せるという事が分かったところで、本題に入って行きたい。

 

経済とは元々経世済民という四字熟語を短縮したものである。

 

世を治め、民を救うという意味の言葉で、熊沢蕃山という江戸時代の人物が唱えた言葉。

 

その言葉の本義を考えるのであれば、経済学は世に人に資するものでなければいけないのだ。

 

経済の状態を景気と呼ぶけれど、この気はまさに気分、気持ちの気である。

 

人の気持ちによって経済は動いていくというのは良い表現だ。

 

たとえば、一万円というのは紙の別名なのだけれど、なぜ紙に一万円分の価値があるのだろうか?

 

その価値があると人々が信じている間は、一万円札にはその価値が与えられる。

 

その価値がないと思われた瞬間に、同じ紙で交換出来るサービスやものの量が減り、質が劣っていく。

 

金の価値が減り過ぎればインフレに、減り過ぎればデフレになる、どちらも不景気。

 

一万円の紙の質が変わったわけではなく、人の価値観が変化しただけで景気が良くも悪くもなる。

 

堅苦しく言えば経済とは思想の事なのだ。

 

どのような世界観を持っているのかという点と、望ましいと考える世の中の形は必ず似通ってくる。

 

たとえば、自由を追い求めれば政府のように強力な力を持つ機構は、邪魔立てするものになる可能性が高くなる。

 

よって、政府は必要最低限の事をやれ、民間に口を出すな、貧乏人は自己責任、金持ちになりたいのなら結果を出せ、努力が報われると思うな、自己責任なのだから、という風潮になる。

 

今の世の中はこの状態である。

 

勝てば官軍負ければ賊軍という考えが、あまねく浸透しているのが現在の日本であり、世界の趨勢なのだ。

 

そこに人としての誇りや矜持は塵ほどもなく、稼ぐ金=人の価値に成り下がっているのだ。

 

繰り返すが、経済は思想である。

 

思想である以上は概念であり、絶対的な答えではないのだ。

 

恐ろしい事に勝てば官軍という流れが世界の趨勢になり、それに対する強い反発としてトランプのような人物が台頭してきた面がある。

 

世界平和も人類平等も素晴らしい考えだけれど、まずは自国の平和、身の周りの公平の方が遥かに大切なのだ。

 

それがおそらく人として当然であり、冷たいのではなくそのようにしかならない。

 

喉が渇ききっている時、自分の募金で飢えを満たした子供がいるという事実よりも、コップ1杯の水を求めるのが自然なのだ。

 

そこに善悪はない。

 

経済の話から相当外れてしまうけれど、明治以降この方、日本は進む道を大きく誤ったのだ。

 

勝てば官軍と言うのは日本人的な思想、精神性から程遠い感覚ではないか。

 

国破れて山河在りという感覚、誇りさえ守れば負けたとしても後に続く人が現れる、自己の生の儚さなどを魂に刻み込んだ日本人が、勝てば官軍などと口にするようになれば、もう世も末である。

 

日本人の精神性をなくしてしまえば、日本列島に住む単なる人なのだ。

 

経世済民を唱えた熊沢蕃山が、今の日本を見たらどれほど嘆く事だろう。

 

結果ではなく過程を重視するのであれば、勝てば官軍などと口にする事の愚かしさを実感出来るはずなのだ。

 

もちろん、勝負事に関してはそこまでシビアな感覚が必要だと分かっているけれど、何をしてでも勝とうと思えば、この世は地獄になる。

 

いや、この世が既に内包している地獄的な面が強調される。

 

結局、この世は地獄であるという事実を隠し、見ない振りをする事によって成り立っている。

 

経済の話から非常に離れてしまったけれど、今日はここらへんでおしまいにしたい。

 

なぜなら、ダウントンアビーの続きを見たいのだ。

 

戦争で生き残ったマシューに子供が生まれ、その喜びで有頂天になり脇見運転をしていたら事故って死んでしまったらしいんだよ、嫁もびっくりの展開だわ。

マシューが帰って来たらしい

ずっと更新したいと思っていたのだけれど、受験勉強やら仕事やら伝統芸能の舞台の準備やらで、ゆっくりとブログを書く余裕がなかった。

 

そんな前置きはどうでも良いのだけれど、今日は何を書こうかと思っていると、ふと思い出した事があるので、その記事を書いてみたい。

 

社会や犯罪などに関する論文を読んでいた時、ある行為が犯罪だから非難されるのではなく、ある行為が大勢に批判される事によって犯罪になっていくのだ、という内容の記述を目にした事がある。

 

たとえば、昔は電車内でタバコを吸う事も許されていたそうだ。

 

私が大学生の頃までは駅のホームに灰皿が置いてあった。

 

しかし、現在電車内でタバコを吸ったとすれば、間違いなくツイッターフェイスブックなどのSNSに晒しあげられて、ともすると殺人犯よりも酷い非難の的にされるかもしれない。

 

犯罪ではないけれど、犯罪「的」な行為として指弾されるのだ。

 

結局、人の世は情緒によって支配され、動いている。

 

気に入らないという感情がまずあり、その鬱憤の体裁を整えて正当な主張のように見せかけるのが理屈というわけなのだ。

 

結局のところ、人は感情から逃げる事が許されないし、それが出来れば人ではなく機械になるのだろう。

 

感情がなければ感動する事もないし、楽しむ事も出来ない。

 

それは確かにそうだし、よく分かるのだけれど、やはり邪魔なもののように思えてしまう。

 

楽しい事はそれほど多くなくて良いから、怯懦や憤怒からも解放されたいと思ってしまう。

 

少し脱線したけれど、つまり世の中で言われている悪というのは、結局のところ多数派の意見という意味なのだ。

 

大勢が批判していればそれが悪いものに思えるし、少数であれば黙殺して構わないとどこかで思っているのだろう。

 

最近は、と言うよりも生まれてからこの方ずっと人間関係が煩わしくて仕方がない。

 

偉くならないと意見が通らないというのは、確かにそうなのかもしれないし、多数派にならなければ身の安全が保障されない、というのも理解出来ないわけではない。

 

しかし、自分の意見を通すのは善だという命題を果たすため、地位を上げようとする時に周りを押し潰すような真似が許されるのかどうか。

 

誰のために、何のために地位を上げ、己の意見を通そうとしているのかが不明瞭になるとは思わないのだろうか。

 

多数派になれば身の安全が担保されるわけでもない。

 

どこにいたって、何をしていたって安全などとは言い切れないのだから。

 

多数派に所属する事で安全だと錯覚する事が出来たとしても、やはりそれは錯覚でしかない。

 

どの立場だろうが、仲間の数がどの程度であろうが、やるべき事は何も変わらないのだ。

 

変わるのは概念としての部分で、それはたとえば社会、たとえば国家、たとえば世間体やいわゆる「普通」などと呼ばれている。

 

偉くなったら「みんな」の見る目が変わる、とか。

 

味方が大勢いると強くなった「気がする」とか。

 

実際には偉くなった自分を見る「自分の目」が変わっているだけであり、味方が大勢いると自らの欠点を省みる謙虚さを失い薄ら寒い安心感を得て、それを強さと勘違いしているだけなのだ。

 

何も変わっていないにもかかわらず、変わったように感じて行動を間違える、判断を誤る。

 

あの行為は犯罪的だ! と指弾していた人たちが間違った瞬間、周りにいたはずの仲間が雲散霧消するのが世の常であり、その良い例がネット上で散見される。

 

もちろん、ネット上だけでなく身の周りで良く起きる事なのだ。

 

勘違いや膨張したエゴを満たすために、特定の誰かを的に掛ける。

 

それがイジメなどに繋がり、たとえば相手が自殺などしようものなら、誰も悪くない場所まで引き下がろうとするのだ。

 

よくイジメを題材にした小説では、自殺したイジメられっ子の事を思い、イジめた側の人物たちが命の尊さを知っていく、という流れがあるけれど、実際にそんな事が起きるはずがない。

 

都合の悪い事は忘れるように出来ているのが人間であり、イジメで人を死に追いやった過去を隠そうと試みるだろうけれど、正面から向かい合う人間がいるとは思えない。

 

もちろん、2,3週間くらいは反省するのかもしれないけれど、結局のところ「自分の」運が悪かったで済ませてしまうのだろう。

 

そう思うと自分も含めて人間は、多くの不条理を抱え、それをいちいち正当化させて生きている事がよく分かる。

 

幸い、私は多数派に所属する事が少ないので、多数派や「普通」などの足を掬われやすい概念から遠ざかっている時が多い。

 

しかし、少数派に慣れてしまうのも困ったものなのかもしれない。

 

理解された時の反応に困るからだ。

 

理解されない事が当然だからこそ、理解や共感を示してもらうと硬直してしまう。

 

嬉しくもあるのだけれど、いまだに対応が分からなくなる事があるのだ。

 

きっとこれは一生続くのだろう。

 

取りとめもない記事になってしまったけれど、今日はここで終わりにしてダウントン・アビーというイギリスのドラマの続きを観よう。

 

マシューがね、戦争から帰って来たんだって、遂に。

ぷっぷくぷー

最近は四月にある受験勉強へと向けてずっと薬膳に関連する事ばかりしているので、物書きとしては落ちぶれつつある。

 

指の体操のためにも無理やり記事を更新しなければならないので、ざっくりとした世界の話をしてみたい。

 

トランプ大統領が誕生してアメリカファーストという言葉が世間で乱舞している。

 

アメリカの大統領がアメリカを第一に考えるというのは、あまりにも当たり前過ぎているのだけれど、これが強く支持されるという事はつまり、これまではアメリカが第一ではなかったと感じる国民の多さを証明している。

 

世界の警察を自称していたアメリカもアジアから米軍を引き下げざるを得ないほど金がなくなり、日本は自分で自分を守らなければならない国へと変化している。

 

ありきたりな右っぽい話に入って行くつもりはないので、ここで注目する点を変えてみたい。

 

つまり、アメリカに金さえあれば米軍をアジアに駐留させる事が可能だった、という意味でもあるのだ。

 

なぜ世界的にこのような不景気なのかと言えば、最近読んだある本によると経営と営利が分離した事による弊害が極まっているからだという事だ。

 

株式会社が生まれた時から、今のような状況が生まれるという問題意識を持っていた慧眼を持つ人物がいたらしい。

 

以前までは経営者が経営をし、組織の中長期的な成長を目指して方針を打ち出す事が出来たのだとか。

 

しかし、企業は株主の所有物としてみなされ、配当をどんどんと釣り上げた結果として、組織を中長期的に成長させるために経営と、目先の利益だけを求める営利とが分離していく流れが生まれた。

 

つまり、企業は株主に配当を与えるためだけの組織へと成り下がり、株主はそれが我々の権利なのだと肩で風を切り、企業から搾れるだけ搾ろうと傲慢になる。

 

さらに株主は今すぐに利益が欲しいのだから、企業が潰れようがどうしようが頓着しない。

 

企業の財産を切り売りさせてまで配当を求めていくのだ。

 

投機にそこまで金を注ぎ込める大金持ちはさらなる金持ちになり、多くの国民のようにそこまで富裕でなければ搾取される対象にしかならない。

 

たとえばFXなどのように投機には、参加者が多ければ多いほど良い。

 

儲けるチャンスが広がるのだ。

 

だからこそ、FXのCMがこれでもかと流されたり、資産運用云々と喧伝されるのだ。

 

端的に言えば他人の財布に手を突っ込み、どれだけ多くを奪えるのかという闘争が行われている。

 

契機が悪くなっていくと人は警戒心を強くするのだから、金を搾り取る事も容易ではない。

 

だからこそ、混乱を起こし社会や生活を不安定化させる。

 

不安定な状況、混乱している状態では冷静な判断力を失いやすい。

 

つまり、金を搾ろうとする側からすれば、それが好都合なのだ。

 

富とは生み出すものであり、他人の分を奪い取り、誰かを貧困化させて自分だけが勝ち残るというイカサマの別名ではない。

 

結局、世界は富を生み出す事はなく、他人から奪えるだけ奪おうという下卑た精神によって、不況の最中にあるのではないか。

 

現在日本はデフレと呼ばれる不景気によって苦しんでいるけれど、デフレがもたらす最大の悪影響は憂鬱なのだと言われる事がある。

 

閉塞感から身動きが取れなくなり、活動が縮小していく事によってさらに金が回らなくなりさらに心身が固くなっていく、という悪循環。

 

恐ろしい話なのだけれど、現在世界中で起きている事はこういう事態であり、出口はトランプが握っている可能性がある。

 

端的に言えば、世界中の人々が幸福になる前提として、私が幸福でなければならない。

 

国単位で言えば隣国よりも、まずは自国の事を優先して考え、自国民を潤わせる政治家がいなければならない。

 

現状では世界で最強の軍事力を持つ米国こそ、世界を牛耳る国であり、その大統領であるトランプは世界最強の権力者となった。

 

トランプが自国を最優先しようと言うのなら、もう流れは変わっている。

 

さて、まだまだ書き続けたいのだけれど、出掛ける時間が来たので今度また。

ぷーちんぷちんぷちんぷ陳腐

仲良くしている人が児童養護施設の小さいものを作るために、東奔西走しているのだけれど、今年は関東で施設を作るのだとか。

 

そこで働いてみないかという誘いをもらったけれど断ってしまった。

 

もちろん、理由がないわけではない。

 

四月には薬膳の受験があるし、物書きの仕事もかなり忙しい時期だ。

 

それに来年には結婚をするかもしれないから、貯金だってしておかなければならない。

 

今は自分のやりたい事よりも優先するべきものが山積している。

 

施設での仕事は物書きとして副業をするだけの余暇もあるし、運動する時間も取れるよと言われたのだけれど、収入との兼ね合いを考えてみると今は仕事を変えるわけにはいかない。

 

こうやって思い返すと、非常に理論的に断る事が出来ているように見える。

 

もちろん、嘘ではないのだけれど、言っていない理由がある。

 

私はきっと誰かと一緒に仕事をするのが無理なのだ。

 

これは思い込みではなく、これまでの人生を通じてずっとそうだった。

 

団体競技が出来ないから空手に没頭していたし、伝統芸能でも演奏ではなく獅子舞や天狐のような単独で成果を挙げられるものが好きだった。

 

人は誰でも期待を持っている。

 

こうして欲しい、ああしてくれたら、と思いながら人と接しているのだ。

 

じゃあその期待に応えようと思うと、際限なく期待が生まれてくる。

 

期待を生んでいる本人はほとんど自覚的ではないのだけれど、無尽蔵に生まれる欲望の萌芽がそこにあるのだ。

 

新しい期待が生まれるたびに、ここまでやれば良いだろうと思っていたゴールが伸びていく。

 

蜃気楼でも追っているかのように、私は休む事なく走るだけになってしまう。

 

自覚していないのだから期待を押し付けていると思っているはずがない。

 

期待は手を変え品を変えてほのめかされる。

 

少しずつ溜まっていく鬱憤が私の態度を硬直にさせていき、そのうち衝突が生まれる。

 

期待を押し付けて来た方は八つ当たりでもされたかのような態度を取り、そんなお前でもを受け入れてやろう、という寛大な態度を見せるのだ。

 

たぶん、「普通」の人たちは期待を押し付け、押し付けられて、その中で上手にバランスが取れるのだと思う。

 

私は何事もはっきりとさせたいという悪い性分を持っているし、そんなバランスが取れるのならこの年齢になってまで、思春期特有の悩みなど抱えない。

 

大抵、この年齢になれば大抵の事は受け流せるものだ。

 

受け流せていなくても、そう出来ている振りくらいは出来る。

 

そして、受け取ったストレスは自分より弱い立場の人に向けて発散すれば良いと思っている。

 

そのために風俗店があるし、そのために家庭がある、子供がいる。

 

結局、ストレスは循環するにしたがって、性衝動や暴力などのより単純な力へと姿を変えていき、逃げられない誰かのところで爆発をするのだ。

 

私にはそれが出来ない。

 

昔から偉そうにしている無能な人間を見ると、反骨精神が出て来てしまうのだ。

 

ストレスを循環させるのではなく、与えて来た相手に返してやりたくなってしまう。

 

だから、私は誰かの下で働くのに向いていない。

 

今は落ち着いて仕事もしているし、生活を送っている。

 

これを手に入れるまでに、ある程度の苦労をしたつもりでいるのだ。

 

たとえ転職をして年収が倍になるとしても、私は今の生活を変えたくはない。

 

私は「普通」の生活、社会に馴染めるような人間ではないのだ。

 

「普通」の生活が出来たとすれば、高層マンションに住む事だって出来たかもしれない。

 

それでも私は一から手作りの、隙間風が入って来る粗末な我が家が良い。

 

私の人生は誰かの手を借りてしまうと、途端に腐食していく。

 

細々とした全ての面倒なものを除外すれば、私は人が嫌いではないのだと思う。

 

現実には大嫌いだけれど、これは人そのものというよりも、人が逃れる事の出来ない業に対して向けられている場合が多い。

 

人は嫌いではないけれど、誰かと一緒にいればいるほどに精神が零落していく。

 

一緒に働くなんて現世では決してできない事なのだ。

 

私は人に迷惑を掛けたくはないし、もう誰の事も嫌いになりたくはない。

 

だから、私は一人で働いていきたい。

Even though I'm sacrifice

今日は最近気に入っているこの曲を聴きながら、久しぶりにブログを更新する事にした。

 

www.youtube.com

 

最初から脱線してしまうけれど、エヴァネッセンスはずっと前から好きなバンドで、何度も繰り返し聞いてしまう。

 

救いようのない雰囲気がたまらなく良い。

 

ところで、年末年始は大忙しだった。

 

28日から先ほどまで仕事で気が付いたら大晦日も正月も終わっていて、いつの間にか日常が始まっている。

 

正月ボケという単語を聞いても、私にはあまりしっくりと来ないけれど、そういう生活が性に合っているとも思う。

 

私はとことん人に合わせるのが嫌いなようだ。

 

人が休んでいる時には仕事をしていたいし、人が仕事をしている時には遊んでいたい。

 

たぶん、夜がとことん好きになったのもこういう理由のような気がする。

 

中学時代から夜遊びを始めて、夜の静寂や世界に自分だけという雰囲気がとても好きだった。

 

誰もいないところが、私は好きなのだと思う。

 

だから、居場所を用意されると困るのかもしれない。

 

私に居場所がないのではなく、私から避けている面がある。

 

今まで落ち着ける居場所なんてどこにもなかったし、だからどこへ行っても落ち着かない。

 

居場所を与えられても、そこでの過ごし方が分からないのだ。

 

人が集まると自然に空気が出来上がる。

 

その場の空気が。

 

そこでは言える事が自然に制限されて、当たり障りのない人間でいるようにと強要されているような気分になる。

 

人と自分は異なっているという考えなくてもわかるような事が、人が集まるというだけで不可解なもの、批判されるべきものになる。

 

面倒を避けたい気持ちは分かる。

 

摩擦だってなるべく少ないほうが良い。

 

それは分かる。

 

しかし、私には余裕がないのだ。

 

私の中から生まれたものでも何でもない、たとえばネット上の情報を鵜呑みにしてペラペラと話していたり、身近な人の下世話なゴシップに終始しているその時間にいったい何の価値があるというのか。

 

そんな事をしている時間など、私には用意されていない。

 

どんなに卑劣でも良い、歪んでいても良いから、相手の経験や無視出来ない感情から生まれた言葉を聞きたい。

 

しかし、どこへ行ってもそこまで本心を話している人など見つからない。

 

酒を飲めば本音が聞けるなどと言うのは、ほとんど寝言に近いと思っている。

 

酔っている時の自分を思い出せば誰だって分かるはずだ。

 

ただ支離滅裂に話しているだけで、全く思考などしていない事が。

 

私もよく理論武装をしているから、本音だけで話しているわけではない。

 

しかし、いわゆる「自分の居場所」と呼ばれているところでは、往々にして自分をどこまで殺せるのか、強い者にどこまで阿る事が出来るのかが競われている。

 

私はそれが虚しいと思うのだ。

 

自由だなんだと世間ではよく言うけれど、人間の本性の中には服従したい欲求がある。

 

自由を自ら放棄して寄らば大樹の陰で生きていくために、誇りを簡単に捨てる人間のいかに多い事か。

 

彼らは一体、誰の人生を生きているのだろうか。

 

誰かの言葉を借り、誰かの顔色を窺い、自らの言葉を話さず、人生に責任を持たず、コソコソと隠れて小さな悪事に明け暮れるその人生は、一体誰のためのものなのか。

 

最近、ようやく自分に居場所がない理由が分かった。

 

最初からないものを探しているから、見つからないだけなのだ。

 

それはおそらく、誰であっても同じなのだと思う。

 

ただ一つ、精神の中にだけ居場所が用意されている。

 

高遠に広がる際限のない闇の中央に、方角さえ分からないまま私は立ち尽くしている。

 

そこが居場所なのだ。

 

四月に薬膳の資格試験があり、さらに上級の資格を取ろうと思っているけれど、こんな資格だって死ねば土塊にすらならない、単なるお飾りだ。

 

もちろん、受験勉強はしているし落ちるつもりはない。

 

しかし、所詮は人生などお飾り、虚構でしかないのだ。

 

私は一体、誰の人生を歩んでいるのだろう。

 

何のためにここまで努力を重ねているのだろう。

 

いつか必ず死に、すべてを手放すのにどうして持ち物を増やそうとするのだろう。

 

人生は矛盾に満ちている。