仲良くしている人が児童養護施設の小さいものを作るために、東奔西走しているのだけれど、今年は関東で施設を作るのだとか。
そこで働いてみないかという誘いをもらったけれど断ってしまった。
もちろん、理由がないわけではない。
四月には薬膳の受験があるし、物書きの仕事もかなり忙しい時期だ。
それに来年には結婚をするかもしれないから、貯金だってしておかなければならない。
今は自分のやりたい事よりも優先するべきものが山積している。
施設での仕事は物書きとして副業をするだけの余暇もあるし、運動する時間も取れるよと言われたのだけれど、収入との兼ね合いを考えてみると今は仕事を変えるわけにはいかない。
こうやって思い返すと、非常に理論的に断る事が出来ているように見える。
もちろん、嘘ではないのだけれど、言っていない理由がある。
私はきっと誰かと一緒に仕事をするのが無理なのだ。
これは思い込みではなく、これまでの人生を通じてずっとそうだった。
団体競技が出来ないから空手に没頭していたし、伝統芸能でも演奏ではなく獅子舞や天狐のような単独で成果を挙げられるものが好きだった。
人は誰でも期待を持っている。
こうして欲しい、ああしてくれたら、と思いながら人と接しているのだ。
じゃあその期待に応えようと思うと、際限なく期待が生まれてくる。
期待を生んでいる本人はほとんど自覚的ではないのだけれど、無尽蔵に生まれる欲望の萌芽がそこにあるのだ。
新しい期待が生まれるたびに、ここまでやれば良いだろうと思っていたゴールが伸びていく。
蜃気楼でも追っているかのように、私は休む事なく走るだけになってしまう。
自覚していないのだから期待を押し付けていると思っているはずがない。
期待は手を変え品を変えてほのめかされる。
少しずつ溜まっていく鬱憤が私の態度を硬直にさせていき、そのうち衝突が生まれる。
期待を押し付けて来た方は八つ当たりでもされたかのような態度を取り、そんなお前でもを受け入れてやろう、という寛大な態度を見せるのだ。
たぶん、「普通」の人たちは期待を押し付け、押し付けられて、その中で上手にバランスが取れるのだと思う。
私は何事もはっきりとさせたいという悪い性分を持っているし、そんなバランスが取れるのならこの年齢になってまで、思春期特有の悩みなど抱えない。
大抵、この年齢になれば大抵の事は受け流せるものだ。
受け流せていなくても、そう出来ている振りくらいは出来る。
そして、受け取ったストレスは自分より弱い立場の人に向けて発散すれば良いと思っている。
そのために風俗店があるし、そのために家庭がある、子供がいる。
結局、ストレスは循環するにしたがって、性衝動や暴力などのより単純な力へと姿を変えていき、逃げられない誰かのところで爆発をするのだ。
私にはそれが出来ない。
昔から偉そうにしている無能な人間を見ると、反骨精神が出て来てしまうのだ。
ストレスを循環させるのではなく、与えて来た相手に返してやりたくなってしまう。
だから、私は誰かの下で働くのに向いていない。
今は落ち着いて仕事もしているし、生活を送っている。
これを手に入れるまでに、ある程度の苦労をしたつもりでいるのだ。
たとえ転職をして年収が倍になるとしても、私は今の生活を変えたくはない。
私は「普通」の生活、社会に馴染めるような人間ではないのだ。
「普通」の生活が出来たとすれば、高層マンションに住む事だって出来たかもしれない。
それでも私は一から手作りの、隙間風が入って来る粗末な我が家が良い。
私の人生は誰かの手を借りてしまうと、途端に腐食していく。
細々とした全ての面倒なものを除外すれば、私は人が嫌いではないのだと思う。
現実には大嫌いだけれど、これは人そのものというよりも、人が逃れる事の出来ない業に対して向けられている場合が多い。
人は嫌いではないけれど、誰かと一緒にいればいるほどに精神が零落していく。
一緒に働くなんて現世では決してできない事なのだ。
私は人に迷惑を掛けたくはないし、もう誰の事も嫌いになりたくはない。
だから、私は一人で働いていきたい。